ろう。おかみさん、あなたになにも云いませんでしたか」
「いいえ」
ねずみ色と白のひだの多い服を着たその客は肩をすぼめた。シューラは蒼い顔に唇をきっと引きしめ、またたきもせず客の一挙一動を見守った。
「わたしんところになおしてお貰いしたいものがあるんですがね」
「へえ」
「一枚たけをつめるのと、一枚ちょっと胸の工合をなおしてお貰いしたいのと――ドイツにいたころ買ったんで、品がいいからすてるのももったいないと思ってね」
仕立屋の伯母は、別にわざとでもない落着いた口調で、
「ようございます」
と答えた。
「直き出来ます?」
女客は少し床几からのり出すようにして、つづけた。
「それで……なんですか、いつ来て下さいます?」
「明日あがります」
「わたしの室でやってお貰い出来ないかしら」
「それは出来ません」
仕立屋の伯母は、落ちついて、しかしきっぱり断った。
「あなたのお仕事ばかりしているんでありませんから」
客は、仮縫には自分がまた出かけてきてよいと云った。
「あなたよりはわたしの方が暇ですからね、とにかく……。で、どのくらいで出来るでしょうたいてい……下宿の前にも一軒あったんですが、おかみさんがあなたへ紹介して下さったもんだからわざわざ来たんですよ」
ナースチャとシューラとは緊張した顔を仕立屋の伯母に向けた。伯母はなんと答えるであろう。どの客とでも話がここで最も白熱し、彼女らはかけ引をみるのであった。
伯母は、シューラそっくりな声のない蒼白い笑いをうかべて黙っている。(昨日彼女が見つけなかった商売仇を、夏だけ来るこの人が下宿の向いに今日見つけたのだそうだ)
「あらましのところでいいんですよ。もちろん」
「まだ品物を拝見していないんですから……」
「勉強して下さるようなら、わたしの友達でおたのみしたいって云っている人もあるし、いくらでもお世話しますよ、ねえ」
客はナースチャの方を見ていくぶんわざとらしく元気に笑った。ナースチャは笑わなかった。
「わたしは子供たちを食べさせて行かなけりゃなりませんですからね」
伯母が云った。
「でも御心配はいりません。とにかく明日品物を拝見してからのことにしましょう」
ナースチャとシューラが中庭を見下すと、黄繻子の頭巻きをした若い女は、さっきの石の上で小さく足ぶみしながらまだ待っていた。ねずみ色のショールを頭へかぶりながら彼らのところへ来た女客が足早に下から出て行き、直ぐつれ立って柵のそとへ去った。
四
隅の椅子にナースチャがかけて見ていた。
アンナ・リヴォーヴナは髪に気をつけながら頭からゆっくり服をかぶって着かけている。のびた腋の下、レースの沢山ついた下着。
すっかり裾をひきおろし、あっちこっち皺をなおし、アンナ・リヴォーヴナは長い鏡の前へ近づいて立った。
「どう?」
ナースチャは、自分に云われたのかどうかわからず、黙っていた。
「なんて云うのお前さんの名――マーシェンカ?」
横向きになって、袖のつけ工合を鏡のなかで眺めながらきいた。
「いいえ。ナースチャ」
「じゃ、ナースチャ、見てちょうだい。腋の下んところがつれてやしないかしら」
ナースチャは立って絹紗のような紫の服を見た。
「なんともありません」
その服をぬぎ、こんどは裾をつめた方を着こみ、小一時間ぐずぐずしている間に、アンナ・リヴォーヴナは、ナースチャにチョコレートを食べさした。そして、田舎娘の細そりした体に不釣合ながっしり大きい手を眺めながら、こんな問答をした。
「お前さん、丈夫?」
「ええ」
「もう一人いた娘さんと姉妹なの?」
「いいえ、あの娘は従妹です」
「へえ、じゃあ誰のお母さんなの、仕立屋さんは」
「シューロチカの」
「お前さんの親は? 田舎?」
「死にました」
ナースチャは変にせつないように、不愉快なような表情をしてぶっきら棒に答えた。
「ふしあわせな! 二人とも死んだの? いつ?」
「饑饉の年。わたしどものところ、そりゃあ病気が流行《はや》ったんです。はじめお母さんがねて、それからお父さんがわるくなって、お父さんが十日先に死んだ。棺が二つ出ました。わたしもやっぱりその時は病気で、熱くって熱くって……窓からどんなに飛出したかったか!」
ナースチャは思い出すように室の窓の方を見たが、急に顔を近づけ、
「ごらんなさい。家じゃ兄さんが死んでから、なにもかもめちゃめちゃになっちゃったんですよ」
熱心に、低い声でささやきはじめた。
「兄さんが生きているうちは、本当になんだってあったんです。パンだって、バタだって、麦粉だって。……兄さんが死んだ時は、泣いた。お父さんも泣いた。兄さんの金時計だけは友達が持って来てくれましたけど……それはいい時計だったんです」
「その兄さんて、なにしていた
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