の?」
「食糧のことをしていたんですけど、なんて云うんでしょうか。……兄さんはボルシェビキだったんですよ。出かける時、お父さんがそれはしっかり兄さんを抱いて接吻してね、兄さんの唇から血が出るほどきつく接吻したんです。兄さんもお父さんに接吻してね、そして出かけて行ったんですよ」
アンナ・リヴォーヴナは溜息をついて、しばらくしてきいた。
「伯母さん、親切にしておくれかい?」
ナースチャは、白木綿の襯衣《コフトチカ》の背中へ手を廻し、それを下へひっぱるような身振りをしながら短く、
「あたりまえです」
と答えた。
「どこかへつとめちゃいけないの? ナースチャ」
「村には仕事がないんです」
「……そうやって伯母さんのところにいつまでいたってしようがあるまいねえ……いくつ? お前さん」
「来月で十七です」
「モスクワへでも来りゃいいのに」
なかばひとり言のように云い、アンナ・リヴォーヴナは立ち上って、仕立代をナースチャに渡した。
「じゃ、布地はこのつぎ伯母さんが見えた時、つもって貰いますからってね」
五
いままで知らなかった感じがナースチャの心に生じた。モスクワへ、自分でも行けるのであろうか。原っぱへ出て、夏空の下の長い堤防や遠くの動かぬ貨車の列を見る時、ナースチャの眼に涙が浮んだ。小学三年だけ行ったナースチャの頭に、アンナ・リヴォーヴナの言葉はつよくうちこまれ、彼女は忘れることが出来なかった。しかし、ナースチャは口に出してはなにも云わなかった。自分の心がこわかった。
ある午後、市場《ルイノク》へ買い出しに出かけていると夕立がかかって来た。ナースチャはいそいで市場のアーチの下へ逃げこんだ。アーチは奥行が深く、その内壁に沿うて十六カペイキの耳飾や針を売る三文雑貨屋や、紐屋、古着売りなどの店が張られている。五六人の労働者と、子供をかかえた一人のツィガンカがやはりアーチの下へ雨宿りに来た。ツィガンカは裸足で、赤い更紗の重くひろい裾《ユーブカ》を蹴るように歩き、一人一人の労働者の前に手を出した。銭をやるものはない。風がさっと吹く。雨あしが白くけむって移った。労働者の濡れた体が乾きかける一種の匂いとタバコの匂いがアーチのなかにこもった。山羊が一匹、野菜店のさしかけた板屋根の横から雨をついてこちらへ向ってかけ出して来た。アーチの下へ入ると、山羊は壁によせて開けてある鉄扉と内壁との間へ頭だけつっこんだ。そうすると安心したように山羊は眼を細くし、時々短い白い尻尾をぶるるるとふるわした。ナースチャはむき出しな腕に籠を引かけ、その山羊のとぼけた鼻面を見ながら笑った。
「ばか……」
ナースチャの肩に後から触るものがある。
「お前さんもここへ逃げこんだの?」
振返って見て、ナースチャは顔をあからめた。
アンナ・リヴォーヴナが自分の体からはなして洋傘《こうもり》の滴をきりながら立っているのであった。
「気違いみたいなお天気じゃないの」
ツィガンカが、目さとく彼女を見つけ、そばへよって来た。
「|可愛いお方《ミールイ・モイ》、|占いしましょう《ガダーチ・ワーム・ナード》、|たった十カペイキ《トーリコ・グリヴェニク》、|占いさせて下さい《ダワイ・ガダーチ》」
アンナ・リヴォーヴナは手提袋をあけ、三カペイキの銅貨をツィガンカの黒い、爪だけ白い手の平にのせた。
ツィガンカはおじぎし、アーチの端へ去った。
「わたしは占いがこわい」
アンナ・リヴォーヴナがナースチャにささやいた。
「お前さんはどう?」
ナースチャはわからなかった。彼女はツィガンカに一ぺんも物乞いをされたことがなかった。そのくらい、見すぼらしい村の娘なのであった。
雨が小降りになって、アンナ・リヴォーヴナとナースチャはアーチの下を出た。
「お前さん急ぐの?」
「いいえ」
歩道の横で女が三人ならび、いまの夕立で柔くなった石の間の地面で草取りをはじめている。その前を通り過ぎた時、アンナ・リヴォーヴナが云った。
「お前さん、本当にモスクワへ出る気はないかい」
ナースチャは、顔や胸があつくなってなんと返事してよいかわからなかった。なんとなく心ひかれたからアンナ・リヴォーヴナについて来は来たのだが……
「もし来たいなら、わたしが帰る時、一しょに行ってもいいね」
アンナ・リヴォーヴナはつづけて云った。
「わたしの家でも働いてくれる人がいるんだからどうせ」
「わたしにはお金がありません」
「そのくらいのことはわたしが立てかえといて上げてもいい。――お前さん、床の拭きよう知っているだろう?」
「知っています」
「洗濯出来るだろう?」
「ええ」
「スープのとりようだって知ってるわね、もちろん」
ナースチャは、ほんの少し弱く、
「ええ」
と答えた。(伯母のところでは、一月に
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