ライエヴナ。なんていいお天気なんでしょう、今朝は! わたしじっとしていられなくなって散歩してまいりましたの、御一緒に――ねえ、アレキサンドル・ミハイロヴィッチ」
女は可愛い自分の祖父《おじい》さんでも抱くように七十歳の、だぶだぶした麻の詰襟服を着たアレキサンドル・ミハイロヴィッチの肩にさわった。が、半中気で耳の遠い老人にニーナの言葉はまるできこえなかった。
仕立屋タマーラは、同じ下宿のうちでもこんな具合な食堂にはなんの関係もなかった。黒と白の四角い石を碁盤形にしいた廊下がある。廊下は暗い。そのかなたの小部屋で、下宿の主婦の胴まわりにテープをまわして働いた。小部屋の窓の外には楡《にれ》の木が枝をひろげていた。でこぼこ石の中庭越しに、裏の長屋と家畜小舎が見えた。大鎌が二ちょう、白壁が落ちて赤煉瓦の出た低い小舎の外壁にもたせかけてある。牛の臭いが時々した。
三
雨が降りつづいた。やんでも太陽は出ず、風がつめたかった。
大きな仕立台に向って、伯母のタマーラが田舎住居にしては白い、丸いおでこをふせて黒絹のユーブカへ飾紐をつけている。無口な娘にでも別にやさしい言葉などかけることのない、顔と手の小さい寡婦だ。向いあいでナースチャは不恰好な子供服の裾かがりをやっている。うしろの板の羽目へ黄色い編下げの頭をくっつけ、相手によっかかるようにしてシューラがナースチャの肱を二本の指で締めつけた。シューラは退屈だ。シューラは茶色の服を着た骨っぽい肩をブルブル震わせ、ナースチャの顔色をうかがいつつ指に力を入れる。
「オイ! シューロチカ!」
「痛い?」
黙ってナースチャは肱を動かし、シューラの手をはらいのけた。シューラは蒼い顔でにやにや笑った。しばらく間をおきこんどは、おはじき[#「おはじき」に傍点]でもするように首をまげ、狙いをつけ、ナースチャの肱の関節を弾きはじめた。これをやられるとなにかの機勢で腕がピーンと指の先までしびれ、心持が悪いと云ったらない。ナースチャは怒って悪態をついたり、追いまわしたりした。シューラは、だから退屈だとこのて[#「て」に傍点]を使うのだ。ナースチャは、裾かがりの上にうつ向いたまま激しくシューラを小突いた。
「およしったら! シューロチカ」
「なぜさ」
「きこえないの? お、よ、しっていってるのが」
ナースチャは、どんなにふざけたって笑ったって叱りもしない代り一緒に笑いもしない伯母の真向うに坐って、面白くなれないのだった。猫もいない空台所へシューラは出て行った。
伯母が云った。
「もうどのくらいですむかい?」
「五インチばかり」
「すんだら畑みて来てくれないか」
耕地で男が二三人水はけをやっている。
原っぱの端のジャガいも畑は、悪い天気あげくで作物がちぢみ、かえってまわりの雑草が伸びたように感じられた。七月だのに、ジャガいもは花を開くどころではない。
ナースチャは、鍬の根っこを両手で握り、空地のまわりの浅いくぼみをほじくりかえした。ここは土地が一帯低いのだから、ナースチャが畑のそとの雑草の根の間へちっとやそっと鍬目を入れたって、溜水は日が照りつけるまで大してひきはしないのだ。
ナースチャは、熱心に鍬を動かしたり、ぼんやり原っぱを見渡したりした。灰色につめたく光る空が野の上にあった。堤防では、通る人もない。
仔豚が一匹往来に出ていた。たんぽぽや馬ごやしの茂った往来端の柔かい泥へ鼻をつっこんだなり、一心不乱に進んで行く。ナースチャが振りかえってみると、かなり遠くからもぐらの掘りあげたような泥がつづいていた。きたない、おかしい畜生とならんで、ナースチャは歩いた。
白樺が六本生えている。柵から空地へ入ったナースチャは思いがけず石の上にぱっとした若い女が立っているのでびっくりした。女は黄繻子《きじゅす》の頭巻きで、下から黒い髪の束をこぼし、家の外羽目に打ちつけてあるT・A・スミルノワ、黒で書いた白エナメルの表札を見上げていた。ナースチャを認め、女は眼尻でちょっと笑った。その眼は少し日やけした顔のなかでやはり黒かった。いい外套を着ている。
長雨に降りこめられたのち、やっと人を見た感じで亢奮し、ナースチャは梯子を駈けのぼった。伯母のエナメル名札こそ屋根の下にうってあるが実際彼らの住んでいるのは二階の二間だけで、七家族が一つの木造二階建家屋に暮していた。階下は便所の臭いがひどくしていた。
黒油布張りの扉を開けるなり入ったナースチャは、首をのばし、
「ヘーイ、シューロチカ!」と呼びかけた口をわれ知らず手でおおった。女の客が来ていた。仕立物台の前の床几にかけ、伯母と話している。ナースチャは百姓娘らしく静かにそっと室内へすべりこんだ。
「まあ! 昨日来なさったんですか、なんて残念なことをしたんだ
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