そこにまた別の寂しさが湧いているのではないだろうか。求める心の寂しさ、ときめきと感じられていたものが、今は何か空虚さの感覚に近づいて来ているのではないだろうか。
 それは社会が若い女に与えている自由が代用品であることから生じている悲劇であるが、私たちの女学校時代を考えると、大人と少女とはその生活感情を露骨に対立させられていたものだと思う。学校においても、家庭においても。
 十五六のころ、こんなことがあった。私の父は建築家であったからいろんな画集をもっていた。折々静かな部屋でそれをくって見るのがいい心持であったが、その中に一枚、少女が裸で水盤のわきにあっち向きに坐って片手をのばして水盤の水とたわむれ遊んでいる絵があった。丁度自分と同じぐらいの年ばえの少女の背中は美しく少しねじられていて、しなやかな脇腹の撓みにうけている光線の工合なんか、自分が裸になってそうやって遊んだらどんないい気持だろうと思わせるような空気の爽かさにみちている。その少女は、二つにわけて組んだ髪を、うなじのところに左右から平たくもって来て、耳のうしろにまとめ、その両方の端にリボンをつけているのであった。
 季節も春であっ
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