とが、文学作品のなかで青春を描いているけれども、そういうものがいずれもその苦悩や不如意に苦しむ姿の若々しさという面で青春が語られているのは意味ふかく感じられる。漱石の何かの小説のなかに、青春というものは淋しいものだ、という文句があって心にのこっている。それは先生が若い学生に向っていう言葉だけれど、若い女のひとにとってもそれはあてはまる言葉ではないだろうか。女のひとの方が男よりそういう感情をぼんやりしか感じないのが普通かも知れないが、自分の十五六歳から後の心持を思い出すと、やっぱりそれを触れたところをもっていると思う。華やぎながら淋しがっている。淋しさのうちに華やぎが底流れているとでもいおうか。
若々しい寂しさについても私たちの時代と今の同じ年ごろの若い女のひとたちとでは、随分ちがって来ているのではないだろうかと思う。私たちの頃は、自然が体も心も多彩にひろがろう、触れよう、知ろうという欲望に燃え立たせているのに、周囲の習慣はなかなかそれだけのびのびしていなくて、いつも鬱屈するものがあった。今のひとは、いざとなると同じ埒で阻まれながら、表面の浅い日常では一応自由そうに羽根をのばしている。
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