感受性によって、ここに生活を少しでもいい方に向けようと努力している一団の人々を発見したのであった。
 然し、学生の討論や、退屈な経済学の本の講義はゴーリキイにどうしても馴染めない。まして、ゴーリキイを目の前において、「生えぬきだ!」とか「民衆の子だ!」とか感歎する当時の学生の子供っぽい気分も彼に、ばつの悪い思いをさせた。五つの時からその日まで彼が揉まれ、既に「人間をつくるものは周囲の環境への抵抗である」と感じている民衆生活の現実の中で、ゴーリキイは学生の云うような民衆は見ていない。民衆はその惨苦な生活で実に夥しい才能、善良さを浪費させられているのである。
 当時、ゴーリキイの職業はパン焼職工で十四時間の労働であった。職人仲間の給料日の唯一の楽しみは淫売婦のところへゆくことである。ゴーリキイも始めは誘われた。が、やがて「お前は、兄弟、俺達と一緒にゃ行くな」と云われるようになった。最も露骨な云い方で唾をはきながら女について喋る仲間の中で、力があまってどこか無器用でさえある逞しい青年となっているゴーリキイは、女に対する優しい期待に燃えながら、淫売屋での娘達[#「娘達」に傍点]の悲惨を目撃した。到るところで、ゴーリキイは生活のつじつまの合わぬもの、ぴったりしないものにぶつかるのであった。「俺はこれからどうなるのだろう?」そういう彼の問いに答えるのは、堂々めぐりの混乱、ちらり、ちらりと見えながら、しっかりと掴めない、よい生活への希望の閃きである。丁度この苦しい時期に、ゴーリキイの宝のような祖母さんが死んだ。その悲しみを打ちあける一人の友達もパン焼釜のある地下室にはいなかった。
 カザン大学ではこの頃学生の大きいストライキがあった。然し一日の大部分パン焼釜にしばりつけられているゴーリキイには、その意味が十分わからない。二十歳のゴーリキイの苦悩は劇しくなるばかりであった。「夜、カバンの河岸に坐り、暗い水の中に石を投げながら三つの言葉で、それを無限に繰返しながら」、彼は考えた。「俺は、どうしたら、いいんだ?」
 その冬十二月の或る夜にゴーリキイは雪の深いヴォルガの崖にのぼり、ピストルで自分の胸を打った。弾丸ははずれた。彼は生きた。そして、又パン焼工場に戻った。――
 この事件があってから後、ゴーリキイは却って生活に対する真率な活溌性をとり戻し、翌年の春から人民主義者のロマーシという男と或る農村に行き、危く殺されかけるような目にも遭った。
 カスピ海の漁業組合の労働者としてのゴーリキイ。やがてドヴリング駅の番人をしながら駅夫や人夫に地理、天文のことを書いた本などを読んでやっているゴーリキイ。彼はこの間にいやという程ツァー時代のロシア官吏、司祭等の腐敗した生活ぶりの証人となった。
 ニージュニへ再び戻ってからは或る弁護士の書記の口を見つけた。二年の間ゴーリキイは書記をする傍ら同じ市の急進的なグループとつき合っていたが、その時代の「唯物論者」達の安易な態度に満たされず、放浪癖のついたゴーリキイはニージュニをすてて、南ロシアを殆ど歩きつくした。最後に今日ではスターリンの故郷として名の高いチフリス市の鉄道工場に入った。処女作「マカール・チュードラ」がチフリス新聞『カウカアズ』に掲載されたのは、まさにこの時なのであった。
 成心く真心から書かれたこの一篇の小説は一八九二年のロシアの文壇に新しい時代の黎明を告げたばかりではなかった。「マカール・チュードラ」を貫いて流れている熱い生活力、不撓な意志、卑劣を侮蔑する強い精神、感情そのものは、ゴーリキイが自ら悟ったよりもっと雄弁に、どん底からの創造力の可能を世界に鳴り響かせたのであった。
 このチフリス市の生活が、ゴーリキイの作家としての生涯の第一歩を開花させたと同時に彼にやや変り種の、しかし何処までも彼らしい結婚生活の発端を与えているのは、まことに興味が深い。二年前にニージュニで知り合ってゴーリキイの全傾倒をひきおこしたマダム・オリガが良人をパリにのこして、花のような娘と一緒にチフリスへ帰って来た。そのことを知った時、この頑丈な若者は狂喜のあまり生れて初めて卒倒した。
 ゴーリキイは真直ぐ、ニージュニへ帰った。そして月二留の家賃で或る家のひどい離家、というより棄てられた浴室を借り、オリガとその娘との三人暮しがはじめられた。
 それにしても、パリへ二度もゆき、フランス小唄のうまい、美食家の「美しく、煙草を吸い、奇智に富んで、男の知人をゆすぶること」がやめられない貴族女学校出のオリガに、何故ゴーリキイは卒倒する迄ひきつけられたのであったろう。ゴーリキイは単に雌でない女を求めていた。肉体と肉体との接触だけで終らず、その奥から生活を清め、高める力の生れる、そういう生活のこもった対象として婦人を見ずにいられなかったゴーリ
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