キイは、偶然の機会から彼の旺盛な発展の道の上に現れたオリガに彼の念願の全部を素朴に投げかけたのであった。
この三人暮しの有様は、オリガがなくなって後書かれた「初恋について」の中に色濃やかな鮮やかさで、情愛ふかく描かれている。
コロレンコとの友情が深められたのもこの時分であり、自分の文学的労作についてだんだん真面目に考えるようになって来たゴーリキイは、オリガとの生活が自分の踏んで来た道を脱させる力をもつことを理解しはじめた。オリガは若いゴーリキイが自分に傾けた熱情について非常に正当な賢い理解をもった。二人は互に確かりと抱き合い、黙ったまま、いくらか悲しい心をもって別れた。「こうして、初恋の歴史――その悪い終末にも拘らず、よい歴史は終りを告げた」のであった。
一九〇一年、ゴーリキイは初めて首都ペテルブルグに現れた。今は誰知らぬ者ない「フォマ・ゴルデーエフ」の作者として。「三人」の作者、「鷹の歌」の作者、フランスのアカデミーからユーゴー百年祭の招待が来た国際的な作家マクシム・ゴーリキイとして。トルストイ、チェホフ、アンドレーエフなどが知友に数えられるようになっていたが、その時分のゴーリキイの風采というものはいつもチェホフを辟易させたルバーシカ一点張で、こんなことさえあった。或る日ゴーリキイがペテルブルグ市中の或る橋を歩いていると、理髪屋風の二人連の男がゴーリキイを追い越して行った、が、その一人の方がびっくりしたように伴れに小声で云った。
「見ろ! ゴーリキイだぜ」
もう一人の男は立ち止ってゴーリキイの頭の天辺から足の先までじろじろと眺め、やり過してから夢中になって云った。
「えい! 畜生ゴム靴をはいてやがら!」
一般のゴーリキイに対する熱中が高まるにつれ、その影響をおそれる側からの迫害がはじまった。一九〇一年の四月に、ゴーリキイは労働者のために檄文を書いた廉で罪に問われ、起訴された。この時ゴーリキイはニジェゴロドスカヤ県のアルザマスという町へやられ、室内監禁にあった。
「小市民」「どん底」の二つの戯曲がこの一種の流刑生活の間に書かれた。「どん底」は特別な成功をかち得、ゴーリキイの名をいよいよ世界的にした。「どん底」の巨大な成功によって得た金で、ゴーリキイはペテルブルグの「ズナーニエ」という出版書肆を買った。少しでも自由に、進歩的な本を出版しようという意志なのであった。二年後、ゴーリキイは社会民主党と関係をもちはじめ、二十余年に亙るレーニンとの友情が結ばれるに至った。
ロシアの社会は急激な濤に押され、世界史に顕著な一九〇五年の一月九日の日曜日の事件では、ゴーリキイは罪なく失われた民衆の生命に対して沈黙していることが出来ず、檄を書いた。ペトロパヴロフスクの要塞監獄監禁が、その行為に対する報復であった。この時ゴーリキイが死刑を免がれたのは、ゴーリキイ処刑反対の大デモンストレーションがロシア国内のみか、ヨーロッパ諸外国で行われたからであった。
翌年、解放運動の資金を得るために、ゴーリキイはアメリカへ講演旅行をやった。この計画は本国からの邪魔が入り、ものにならなかった。ゴーリキイはこの旅行に正式に結婚していなかった妻を同伴したところ、アメリカの清教徒婦人の間からそのことで、講演開催に反対する運動がはじめられたのであった。
これらの活動でゴーリキイの肺病が悪化した。この旅行の帰途ゴーリキイは政治的移民として、イタリーのカプリ島に行き、一九一三年ロマノフ王家三百年記念大赦令が出るまで八年間カプリに止ることになった。
イタリーでゴーリキイはレーニンによって高く評価された小説「母」を書き、「オクロフ町」を書き、いくつかの傑れた短篇小説でレーニンの新聞『星』を飾った。ルナチャルスキーと労働者学校を経営したのはこのカプリ島時代である。そのことの当否についてレーニンは度々信頼に充ち、而も正確な判断にゴーリキイを立ち戻らせるための手紙を送っている。
世界を震撼させた「十月」がやがて来た。
ゴーリキイは、当時自分の主宰していた『新生活』紙上で、この新しい人類の世紀の正しい理解をひろめるために、又、レーニンに対する逆宣伝を破るために精力的な活動を惜まなかった。彼は人民委員会の顧問となり「学者の生活改善委員会」の長となり「世界文学叢書」刊行責任者となり、飢饉救済委員会長として、国際的なアッピールを行った。ロシアの大衆を圧していた限りない不幸、その軛がはずされたこと及びゴーリキイ自身物心づくとからそれによって心臓をひんむかれるような苦痛を感じて来た沼のような無智、野蛮、屈従が、今や追っぱらわれようとしていること。ゴーリキイは誠実な心を持つ一人の作家としてそれを認め、歓喜せざるを得ない。一方に、当時のゴーリキイとしてはレーニンの考え方に十分納得出
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