を女中代り、下男代りにこき使い、おまけに二人の炊事女がこれ又自分達の下働きとして追い廻す。ゴーリキイは後年当時を回想してこう書いている。「私は多く労働した。殆どぼんやりしてしまうまで働いた」と。
 この境遇に一年辛抱したが、到頭逃げ出してゴーリキイはヴォルガ河を通っている汽船の皿洗いに雇われた。給料は、月二|留《ルーブリ》。朝六時から夜中までぶっ通しの働きである。ここにもやっぱり暗い野蛮と卑穢とがあるのみであったが、然し計らずもゴーリキイはこの労働の間で彼の人生修業にとって否むべからざる「最初の教師」にめぐりあったのである。ゴーリキイにとっての上役、料理番のスムールイという大力男が行李の中に何冊かの本をもっていた。彼はゴーリキイに目をかけて、繰返し、繰返し云った。
「本を読みな。わからなかったら七度読みな、七度でわからなかったら十二遍読むんだ!」
 そして、自分の経て来た無駄な生涯を顧みて、肥った獣のように呻き、深い物思いに沈んで荒っぽく怒鳴るのであった。
「そうだ! お前には智慧があるんだ。こんなところは出て暮せ!」
 冬が来て、ヴォルガ河が凍り、汽船の航行がとまると、ゴーリキイは、又製図工のところへ戻って働いた。働きは依然としてひどいものではあったが、彼には本を読むという無限の慰めが出来た。プーシュキン、ディケンズ、スコットなどの小説をゴーリキイはどんな熱中でもって読んだことであろう。彼は、本を読んでいるところを主人に見つかってひっぱたかれないように燈火を毛布でかくして読み、机の下にもぐり込んで読み、誰一人いない風呂場の月明りで読んだ。十三、四歳の彼は「屡々読みながら泣いた。それ程にこれらの人々のことはうまく話されていたし、これらの人々はそれ程愛らしく親しかった。そして、馬鹿げた仕事でひきずり廻され、馬鹿げた悪態で辱かしめられる小僧であった私は、大きくなった時には、これらの人々を助け、正直に彼等の役に立とうというおごそかな誓いを立てたのであった。」
 この製図工見習もものにならず、ゴーリキイはその後汽船につとめ、日本でいえば仏師屋のような聖像作りの仕事場で働き、人夫頭となり、ニージュニの市で毎年開かれる定期市の芝居小屋で馬の足までつとめた。
 彼のまわりはどっちを見ても無智と当てのない悔恨、泥酔、飽き飽きする程お互に傷け合うような惨酷さが充満している。それだのに彼の読む本は何と人間の尊厳、発展の可能、真理の強さについて語っていることだろう。ゴーリキイは遂にカザン市に行って、カザン大学へ入る決心をした。
 ところが、行って見るとカザン市で彼を迎えたのは歴史に名高いカザン大学ではなく、着いて三日目からの飢えであった。カザン大学のどの課目にもないゴーリキイ独特の「私の大学」時代が来たのであった。
 ゴーリキイは淫売婦や貧しい大学生、人生の敗残者などがごたごた詰っているカザン市の貧民窟の一隅に、或る急進的な学生と暮した。
 寝台が一つしかなかった。学生とゴーリキイとは夜昼かわり番こにその寝台に眠り、朝になるとゴーリキイは「飢えないために、ヴォルガへ、波止場へと出かけて行った。そこで十五――二十|哥《カペイキ》を稼ぐことは容易であった。」
 幼年時代は祖父の家の恐ろしい慾心の紛糾を目撃し、転々と移ったこれまでの仕事の間では小市民的な日暮しのあくせくした猜疑に煩わされて来た。十五のゴーリキイにとって、これらの荷揚人足、浮浪人、泥棒の仲間は、彼等の極端な貧窮、不幸により、而も猶彼等が自由に生活を選んでいるという点で若いゴーリキイを惹きつけた。ゴーリキイは、灼熱された石炭の中に投げ込まれた一片の鉄のように自分を感じ、強烈で新鮮な印象に充たされながら、「彼等の辛辣な環境に沈潜して見ようという希望を呼び醒された」のであった。
 然し、時が経つにつれ、ゴーリキイの心に一つのつよい疑いが湧いて来た。これらの同情すべき人々は、どうしてこう何を喋っても、すべて過去の形で「あった」「よくあった」「こうだった」「ああだった」という風にばっかり語るのだろうか。彼等にとって総ては嘗てあった[#「嘗てあった」に傍点]ことである。これから何かあるだろう[#「あるだろう」に傍点]ということ、そのことは決して彼等の言葉にのぼって来ない。これはゴーリキイを苦しませ、恐怖させた。
 ゴーリキイの胸には「何かぼんやりとした、しかし私が見たすべてよりももっと意義ある何物かへの欲求」があるのである。ゴーリキイの心には周囲の生活に対する切ない反問が生じた。「何のためにこれ等のすべてがあるのであろうか?」
 この時代にゴーリキイは或る予期しないきっかけから当時ロシアに擡頭していた「人民派」の学生達と知り合い、その研究会へも出席するようになった。ゴーリキイは天成の素直さ、鋭い清廉な
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