逝けるマクシム・ゴーリキイ
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)留《ルーブリ》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)二十|哥《カペイキ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)嘗てあった[#「嘗てあった」に傍点]ことである。
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 一人の人間として最も誠実な心から人類の生活の向上と発展とを信頼し、そのために永い困難な芸術家としての努力を捧げたマクシム・ゴーリキイの六十八年の輝きある生涯は、この六月遂に終った。
 ゴーリキイは、ロマン・ローランなどと共に今日の世界がその人を持っていることを誇る偉大な芸術家の一人であるが、特にゴーリキイはその名を聞いたとき人々の心に一種云うに云われぬ暖かさ、親しさを感じさせ、終局に於て人類は不合理や穢辱に堪えきれるものではないのだという単純なはっきりとして楽しい確信を湧き起させる力をもっているのは何故であろうか。私はこの男らしく而も優しい偉大な人生の一選手がどんな苦痛や歓びをもって自分の時代と境遇とを生きぬき、芸術家として老いて猶且つ永遠に若い生命力の源泉となり得たかという物語を、ここに語りたいと思うのである。
 マクシム・ゴーリキイは、一八六八年三月二十八日、ロシアでは最も古くから発達した商業都市の一つであるニージュニ・ノヴゴロド市に生れた。本名は、アレクセイ・マクシモヴィチ・ペシコフと云った。父親はマクシム・ペシコフ。母の名はワルワーラと呼ばれ、彼は二人の長男として生れたのであった。
 父親のマクシムはゴーリキイが五つの時、ヴォルガ河を通っている汽船の中で急病で死んだが、どちらかというと特別な生涯を経験した人であった。
 その父親が死んでから、小さいアリョーシャ(ゴーリキイ)は母親のワルワーラと一緒に祖父の家で暮すことになった。が、この鋭い刺のあるような緑色の眼をした老人は、一目見たときからゴーリキイの心に何か本能的な憎しみを射込んだと同時に、この祖父を家長といただいて生活する伯父二人とその妻子、祖母さんに母親、職人達という一大家族の日暮しの有様は、全く幼いゴーリキイにとって悪夢のように思われた。
 深くかぶさった低い屋根のある、薔薇色ペンキで塗った穢い家の中には二六時中怒りっぽい人達が気忙しく動き廻り、雀の群のように子供達が馳け廻っていた。ワルワーラが帰って来たので伯父たちの財産争いは一層激しくなり、飯の最中に掴み合いが始ることも珍しくなかった。さもなければ、こういう伯父たちが先棒になって、半分盲目になった染物職人の指貫きをやいておいて火傷をさせて悦ぶような残酷で卑劣なわるさを企らむ。あらゆる悪態、罵声、悪意が渦巻くような苦しい毎日なのであるが、その裡でゴーリキイを更に立腹させたのは、土曜日毎に行われる祖父の子供らに対する仕置であった。祖父は一つの行事として男の子供らを裸にし、台所のベンチへうつ伏せに臥かせ、樺の鞭でその背中をひっぱたくのであった。ゴーリキイはこの屈辱に堪えることが出来なかった。幾度も抵抗して猶更ひどくひっぱたかれ、とうとう気絶し熱を出して永い病気になってから、さすがの祖父もゴーリキイに手を出すことは止めにした。
 こういう幼年時代の暗い境遇の中で、ゴーリキイの心に消えぬ光明と美の感情を与えていたのは祖母アクリーナの風変りな存在であった。若い時分は孤児で乞食をして生き、レース編みを覚えてからはその勝れた腕前で食っていた祖母は、どん底の閲歴の中から不思議な程暖い慾心のない親切と人間の智慧のねうちに対する歪められない信頼とを身につけていた。民謡を上手に唄い、太った体つきのくせに魅力のこもった踊りかたをし、特にその物語りは、聴きてを恍惚とさせる熱と抑揚と色彩をもっていた。祖父の留守の夜の台所の炉辺の団欒で、或は家じゅうを巻きこむ狂気騒ぎから逃げ込んで屋根裏の祖母さんの部屋の箱の上で、ゴーリキイが話して貰った古代ロシアの沢山の伝説、盗賊や巡礼の物語は、息づまる生活の裡からゴーリキイの心に広い世の中の様々な出来事に対する好奇心、生活の歓びを養ったのであった。この時代の追想はゴーリキイの作品として最も興味あるものの一つ「幼年時代」にまざまざと芸術化されている。
 七歳になったときゴーリキイは祖父に古代スラヴ語を教えられ、八つで小学校に入れられたが、まともなルバーシカ一枚もっていないゴーリキイの小学生生活はごく短い期間で終った。
 いよいよ「人々の中」での生活がはじまった。祖父は彼を靴屋の年期小僧に出した。ここでは、店の用事のほかに台所仕事に追いつかわれ、二ヵ月後、火傷のためにひまをとった。
 手が癒ると、今度は製図工見習にやられたが、住込みの見習小僧の生活はここでも前同様であった。主人は少年の彼
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