生態の流行
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)谺《こだま》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)生態[#「生態」に傍点]ばやりで、
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二ヵ月ばかり前の或る日、神田の大書店の新刊書台のあたりを歩いていたら、ふと「学生の生態」という本が眼に映った。おや、生態[#「生態」に傍点]ばやりで、こんなジャーナリスティックな模倣があらわれていると半ば苦笑の心持もあってその本を手にとってみたら、それはどこかの場当りなブック・メイカアがこしらえているものではなくて、官立大学の学生主事をしている人が、そういう職名もちゃんと肩書きに明記して著している本であった。
このことは、忘れることの出来ない印象となって今日も私の心にのこされている。学生主事という仕事が本来どういう立て前で設けられているのかよくわからないが、ともかく学生生活の各面に接触をもつべき立場なのだろう。従って「結婚の生態」が現代らしい一つの流行を示していることも、元より知られていただろう。この種の著書の題に、その通俗な流行作品の字をそのままもって来て使う神経というものは、文学の感覚から遠いばかりでなく、学者らしさ或は先生らしさと云われて来ているものからも大分距離があるように思える。文学の感覚が活々としているなら、流行の元祖のその小説が、日本の現代文学にどういう在りようをしているかということの理解から、その同じ字を使う気にはなれなそうである。学者らしく又先生らしい心持の勘には、今日のジャーナリズムの相当荒っぽい物音がそのまま疑問もなく谺《こだま》することは無さそうに思える。著者にとりてこれは不幸な偶然であるのかもしれないけれども、第三者の心には、今日の日本の文化の肌理《きめ》はこうなって来ているかという、一種の感慨を深くさせるのであった。
そして、「学生の生態」という題は、じっとみているうちにまた別の面で私たちの心持を妙にさせる一つの力を持っている。生態という字を私たちの常識は例えば植物生態学、動物生態学というつづけかたでこれまでうけとって来ていると思う。字引をひくと、生態学は生物と外囲及び生物と他の生物との関係を研究する学科、という説明がある。そういう自然科学の一部門の用語である。「結婚の生態」と云うつなげかたも何か妙だが、そこにはその小説の作者が、結婚というごく社会的な内容の対象を、テーマの上では男の或る意味での平凡な旧套に立つエゴイスムの肯定として扱っている態度とどこか相通ずるものが感じられなくもない。
だけれども「学生の生態」という字を見ていると、私たちの心は非常に変な気がして来るのは、何故だろう。「学生の生態」という字をじっと見ていると、学生というものが現実その書棚のまわりにも群がって埃と膏《あぶら》と若さの匂いをふりまいている様々の心と体との生々しい人間たちではなくて、その本の著者の心情からスーと遠のいて自然科学的な観察の対象と化された半透明な、自発的な意志のない、海月《くらげ》か何ぞのように感じられて来るのは、何と悲しい心持だろう。
ここにたとえて云えば「現代学生の動向」という題があったとする。決してジャーナリスティックでもないし、文学的でもない題だと思う。謂わばこちたき題名で、そこに著者が肩書つきであらわれていれば、随分と取締の立場も感じられる題の一つである。それにもかかわらず人々はその題を見てすぐ日常自分たちと混ってそこら辺にいる生身の好もしく又好もしからざる青年たちとしての学生を感じ、彼等の生活の姿を眼底に髣髴《ほうふつ》する。それに対して漠然直感されている各人の日頃からの感想というようなものも、その題への一瞥と同時に動かされて来るのを感じると思う。自分たちが嘗てはそのものであった学生、兄や弟や仲間たちが皆そうである学生、よろこんだり悲しんだり不幸をもったりして成長と挫折の可能の間に青春を経験しつつある外ならぬその学生としての感じが、親密に共感をもって伝えられて来ると思う。学生は人間としての暖かい血をもって生きているものとして十分感じさせる題なのである。その意味でリアルな題であるとも云える。著者の社会的判断の志向の責任もおのずから含まれているのである。
「学生の生態」という題は、これに比べて濡れたガラスの面にさわるような感触を与える。外囲の或る条件のもとに自然物としての生物は変化する、その変化を客観的に観察する、生態学となそうというのであろう。――だが、人間はそして青年学生はほかの自然物としての生物にはない精神をもっており、感じる心をもっており、環境へ自分から働きかけてゆく力も欲望ももっている筈ではないのだろうか。それらの人間らしい力を認められての上で、その力のあらわれについて相互関係
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