の方法は他の作品にも見出される特徴である。そのような現実に対する作品の本来は負の骨組みを覆うて、作品の現実性を信じさせる条件としてこの作者は一方で小説の細部の具体性は実に洩れなく書き堅める用意を忘れないため、一層その主題の一ねじりに於て加えられている作者の意識しての手の力は、人生への強引、文学への強引として印象づけられるのである。
二ヵ月ばかり前の『新潮』に同じ作者の「伊豆日記」というのがあった。伊豆の温泉での文壇交友日記のようなものであるが、その中に、「プチット・ファアデットを読む。この小説は自分には不満だ」とあり、その不満の理由として、ジョルジュ・サンドが、この作中でカイヨウという農夫が若者ランドリイに牛の扱い方をどういう風にするか自分でやって見せたとだけしか書いていず、そのどういう風にするかを実際に描き出していない点をあげている。岩波文庫では「愛の妖精」という題で訳されているこの物語の、条件的ではあるが否めない全体の美しさ、不仕合わせを、そうでないものにかえてゆくファアデットの女らしく而も健気《けなげ》で人生的な気力とそれを語る作者の情熱の味いを知っている人々にとって、正直なと
前へ
次へ
全6ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング