だろう。ものの美しさは、生活の裡で時、場合、人にかかわりあって来るその流動において感じられ、とらえられるもので、なければなるまい。何が美しいかということに関する固定した知識が伝統からもたらされるとすれば、どんな時どういう風に美しくものを使ってゆくかという感覚こそ、今日の中から新しい美をつくり出してゆく潜在力となるものだと思う。
 日本の衣服についての再吟味が初まって幾何かの時が経っているが、婦人の衣服の改良案などが一つも訴えて来るものをもっていないのは、やはり改良して行こうとする心の動機に、弾力がないからだと思う。単一化そうとばかり方向がむけられていて、人間は働き、そして休みくつろぐものであるという、生存の根本のリズムがつかまれていない。平日と式日という風にだけ頭が向けられていてそれを何とか一つもので間に合わそうと考えられている。それでは美しさも、凜々《りり》しさも生かせまい。
 働き着は働きの律動を充実させたところに美が見出されるのだし休みのときの服装は、休みのときの感情に添うているからこそ人間の衣服と呼ぶにふさわしいのである。和服で面白い働き着というような工夫が紹介されるとき、妙に擬古趣味になって、歌舞伎の肩はぎ衣裳だの小紋の、ちゃんちゃんだのがすすめられているのは、何処か趣向だおれの感じではなかろうか。働き着の面白さは、働きそのものを遊戯化しポーズ化した連想からの思いつきによってもたらされるものではなくて、やはり真率に働きの目的と必要とに応えて材料の質も吟味された上、菅笠で云えばその赤い紐というような風情で、考案されて行くべきなのだろうと思う。
 私たちの生活の中では、生活の中にある平凡さが、どこまでその美の内容をたかめて行きつつあるかということが、大切に考えられていいのだと思われる。署名もない、そこいらにあるものに、どんな美しさがこもっているかということ。つまりは美を生み出してゆく可能力がどの程度まで豊饒に一般の生活感情の内にはらまれているかという点が、問題になって来るのである。今日の日本では一般の生活感情が動揺しているとともに、そこにふくまれている創意性も複雑な転変を経験しているのが実際であろう。
 ひとの話では、染色の技法は今日或る転機に面しているそうだ。これまでは、刺繍だの金銀泥が好きなだけつかえて、染料の不足もなかったから、玄人とすればいろいろ技法を
前へ 次へ
全5ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング