皿に、その盆に、どんな暖い心がこめられているかというところこそ見られて行かなければなるまいと思う。そういう何でもないものが、十五銭の皿は、はい、こんなもんですよという風に生活の中に突き出されているか、それとも、十五銭なりにちょいとした可愛い人間らしい工夫がほどこされているか。その時代の人が、そのどっちの気分で生きているか、というところに問題があるのだと思う。それが自然にあるところで、どんな味を湛えているかという事にこそ、美しさの生々とした本来の姿があろう。
 マリ・アントワネットが宮園に百姓小家をつくらせたことは、当時の貴族の文化の健やかさを示すものとは見られず、フランス史の中で一つの頽廃の表象としてあらゆる人々に知られている。
 日本の或る地方の農民は、極めて手のこんだ背い子を編む。だけれども、それは現在その地方でも実用には使われていないという風なものを蒐集して、仮に客間の壁にかけて置くという趣味が、果して美しさに敏感な心と云えるだろうか。
 又、外国の宮殿を見ると、よく支那の間とか、トルコの間とかいう室がつくられている。すっかりその国の特色あるもので装飾されて一室をなしている。そういうところを眺めていると、過去の世紀の権力の表現方法やその様式というものが、絵巻のようにまざまざと甦って来て、あくどい思いがする。
 いろんな国の品物のいろいろな面白さのよろこびで一つ二つのものが、家のあちこちにひょい、ひょいとあるのは自然にうけられるけれど、家具調度一式琉球とか朝鮮とかいうところのもので埋める趣味があるとすれば、その一つ一つがもっている美しさとは、いつしか別物なはためには何々の間と相通じたものとなって映る一種特別な感覚もあり得る。
 生活の中にあるものの美しさは、それが巨大な機械類であると、小さい日用品の類であるとにかかわらず、そのものが生きて働く目的を十分示していて、その充実感が美に通じているべき筈のものだろうと思う。
 一つの御飯茶碗がここにあるならば、それは色と云い形といい、いかにもそこへ御飯をよそって食べて見たいと感じさせる。そういう直接で溌溂としたものでありたい。それを作ったひと一人だけの趣向だけが強調されているものは、道具類だと猶更重苦しいと思う。
 この意味で、美しいもの、という観念が私たちの生活のなかでもっともっと贅肉のとれたものとならなければならない
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