ある。
 世の中の勢は益々画一へ向い、工場でも小さな工場は併呑されて消えて行っている一方で、人々の感情に郷土的な品物や極めて手工業的な製作品が新しい興味を呼びさまして来ている関係は、今日の日本の文化の心理として案外に微妙であり重大でもあるのではないだろうか。
 或る時期の文化の中で、こういう分裂の現象があらわれて来ることは見過されてならないことだろうと思う。
 生活の片隅から親愛な美しさが失われてゆく感じから我知らず郷土的な風趣のあるものだの、げてものの面白さだのを求めている人々の生活にしろ、つまりはそれらのものを外から運びこんで生活のあすこ、ここに置いているだけのことで、つきつめて云えば一種の消費が形を変えたものに過ぎない。生活の面に飾られ、置かれ眺められているだけのことで、生活の内部からつくられたものでないことは否めない。
 郷土的な物産にしろ、それならばそれぞれの地方で一般の人たちがそういう製作品の味いで日常生活を特色づけ豊かにしているかと云えば、今日ではその地方を潤す色彩としてよりも、寧ろ郷土物産として都会へ売り出される目的でつくられる方が多いだろう。嘗てはそれぞれの土地の人の毎日の裡におかれた生活に即した美しさは、今やもっと迫った経済の関係で外部へ吸い出されている。
 柳宗悦さんたちのやって居られる『月刊民芸』という雑誌の座談会で、誰かが、この頃やっといくらか人々が物の美しさに目をとめて来たようだ、と云っておられる今日の傾向は、そういう訳で、決して単純な動機であると云えない。単純に、美しさを生活の中にもちたい心持がまして来ている、とだけ云い切れまい。余りどこもかしこも荒っぽく殺気だっている明暮だから、せめて台所ののれん[#「のれん」に傍点]ぐらいはと、仮に「こうげい」でそんなものでも買う人々の暮しは、現実にはその台所の戸棚に相当な食糧の補充も蓄えられている人々のことである。そもそものれん[#「のれん」に傍点]の発祥した庶民の暮しは、同じ荒っぽさに一きわむき出されているのだが、そういう生活の中では、一山いくらと札の立っている瀬戸物のなかからより出して来る茶碗が実にひどいものになっているという今日の情のこわい肌ざわりしかないのである。生活の中にある美しさについて云うならば、それはごくあたり前の、必要から幾箇かの皿小鉢、何枚かの盆をつかって暮している人々の、その
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