と国内における抑圧を、ひしとその運命にうけてきながら、そこからの完全な解放をかち得ようともしない民衆と作家とがあるとすれば、そのあまりの暗愚と卑屈さがくちおしいことであるのと同様である。「魂の技師」として責任ある作家の一人であるゾシチェンコがソヴェト市民の無邪気な意識の立ちおくれを、次第にあくどい嘲弄のための嘲弄の方向へ導いた場合、心ある読者が沈黙していられようか。民主的推進こそ日本のわれわれの生きる力の根源である時に、インテリゲンツィアにたいしては哲学ぶった「絶対無」の説教を与え、勤労階級には『赤と黒』『リベラル』その他の猥本類似の刊行物を氾濫させ、新聞は用紙不足で半紙ほどのものにした支配者たちの文化政策にたいして、心ある日本の市民が黙視できないのと同じことである。
 ゾシチェンコ、アフマートヴァなどの実例によってソヴェトでは文学・演劇・音楽・映画の全部門に自己批判がひきおこされた。文学分野でのことは、ソヴェト作家同盟が処理すべきことで、ジダーノフの報告をまたないでもよかろうという考えかたもあり得る。しかし実際問題として、レーニングラードの作家同盟、もしくはモスクワの本部が、それらの
前へ 次へ
全39ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング