、日本に来ても、ユーゴスラビアへ行っても、彼には彼の手帳をとり落すほど気を奪われる何ものもなかった。彼の自若性、客観性はテストにかからなかった。それらの国々での社会生活は、彼のもちあわせた判断力を惑乱させるほど豊饒でないから。アメリカでシーモノフは、一個のソヴェト市民とし、一個の社会主義作家として、これまでのどこにおいても経験しなかったいくつかの経験にめぐりあわないわけにゆかない。シーモノフの年代の作家たちは、辛苦にたいし、窮乏と危険とにたいして耐える自信は身につけた。資本主義社会というものの性質も、わかっていると思われている。けれども、ニューヨークの昼と夜とのあらゆる生活の表裏は、けっしてけっして彼の英訳された「昼と夜」と等しいものではない。愚劣なもの、醜悪卑劣なもの、同時に賢明、純良、壮大であり横溢的で、すべての現象が、現世界の全保有量の過半をしめるアメリカ的社会の上に満開している。その失業やストライキや住宅難もともに。ソヴェト作家シーモノフは、このアメリカの巨大な有機体のなかに入って、自身の社会主義的自覚を、自身の人間的内在性すべての亢奮をとおし、自然発生の諸眩惑と誘惑とをとおして、対決させないわけにはゆかない。自身の理性の最大を働かすだけの刺戟をうけるのである。
 シーモノフにおけるこの経験は、エレンブルグのアメリカにおける経験よりも、ソヴェト文学にじかにつよい作用をうつすであろう。エレンブルグは、その気質、年齢、外国生活のながい経験などによって、アメリカの社会生活と自分との関係を一定の規準で設定する技術をもっている。コンスタンチン・シーモノフは旺盛な三十歳という年齢、彼の感性的な素質、経験の追求、観察の追求における作家らしい生活性などは、日本の浅く乏しい社会生活の流れの上に立った期間においてさえ、私たちに感受された。彼の横溢性はアメリカの横溢性と向いあい、まじりあって、彼が社会主義の段階に到っている民主国の市民、その人民の作家であることを、どのようなおどろきをもって再確認するであろうか。ここに、一つの大なるみものがある。ジダーノフの報告に警告されている、ソヴェト作家の外国文学追随の弱点というようなことは、シーモノフの一例でも見られるとおり、ソヴェト社会が、人類の歴史にもたらしつつある寄与の大きさによって、国際的となりはじめた若い有能な作家・技術家・諸市民が、自身の生活的実感において国際的になりつつある、その現実からこそ、揚棄されてゆくのである。
 ソヴェトの人民国家が、あらゆる偏見の内部においてさえ確実に占めつつある国際的な存在意義にともなうその文化・文学の国際性は、ドストイェフスキー、トルストイ、ツルゲーニェフらがむかしも今も有名であり、ゴーリキイがパリで演ぜられ、チェホフはイギリスにガーネット夫人という自身の翻訳者をもった時代にくらべれば、本質的に飛躍している。前時代の大作家たちは、西欧のひととおりの「文明」が、真摯にとりあげる習慣を失った社会的矛盾の諸苦悩、無知の歎き、無権利な人間の高貴な憂悶などにおいて、西欧とアメリカの知識人をうった。彼らを快よく厳粛にし、彼らに人間的自覚のよろこびを与えた。この大戦中から、ソヴェト文学が世界にもちはじめた読者との関係は、前時代のこの段階をとびこした。それは動きだした。自身の出血に耐えながら人類の正義と解放のためにその社会主義祖国を防衛することで、同時にフランスとドイツの人民的自由を、アメリカとイギリスの進歩的な良識を、防衛し解放する実行者、そのリアルな語りて、平和のための不屈なたたかいてとして、ソヴェト文学は世界の関心にたち現れているのである。二十世紀のはじめピータア・クロポトキンがボストン大学で「ロシア文学の理想と現実」という有名な講義を行った。その当時の内容では、とても予想されがたかった達成が、ソヴェト文学の本質となりつつあるのである。
 ジダーノフの堂々として正確な、心情に訴えるソヴェト作家への忠言は、わたしたち日本の作家からみれば、まだまだソヴェトの作家の独自性のよろこびと自覚とにたいして、ひかえめの注意しか喚起していないとさえ感じられるのである。ソヴェト作家が、ソヴェトの人民国家の諸経験、諸成果、痛苦なその失敗から学び、描き、物語らないで、どこに彼らの創造的情熱の源泉がありうるだろう。ソヴェト作家は、ソヴェト人民国家の一員である以外にありようはない。この現実のうちに、かぎりない未来の達成と今日の未完成とがあり、文学の生粋なモティーヴがある。そこに作家が生きている社会は、過去のどんな社会の模倣でもないとき、作家がどうして、旧いもの、おくれたもの、足の萎《な》えたる文化の模倣をしなければならないのだろう。そこの社会こそ人間らしい立体的人間性の発展のためにつくしているの
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