のための文学の狼火として存在したプロレタリア文学運動の歴史と、文学についてのその基本的認識が、よしやどんなに大まかなものであり、不幸な傷をうけているにしろ、絶対的に存在価値をもっている所以である。

          三

 ソヴェト同盟の作家に、有名なイリヤ・エレンブルグという人がある。一九二七・八年ころメイエルホリドが表現派風の上演をした「トラストD・E」の作者であるが、このエレンブルグの作家としての活動の形は、四〇年までのソヴェト文化の上では、一つの特殊例であったのではないかと思う。エレンブルグは非常にしばしばフランスその他国外に暮し、フランスが中心になって反ファシズム闘争の人民戦線運動をおこした当時、活溌なルポルタージュを発表した。ヨーロッパ資本主義の国々における民主的であり進歩的である集団と、ソヴェト同盟の達成との間の、文化的輸送管のような役割を占めていた。イリヤ・エレンブルグは私たち外国作家の目に、ソヴェト作家中のハイカラーな人の一人として見えていたのであった。
 こんどの大戦を境として、ソヴェト全市民の国境は拡大された。シーモノフに「ユーゴスラビアの手帳」という短篇集があるとおり、ソヴェト市民の生活感情の圏はひろげられて、ドン河をこえたことのなかったものが、その岸をふんだばかりではなかった。話できいていたよその国々の民族とその社会生活とを見た。ただそこへ行って、「郷に入っては郷に従え」という生きかたをしたのでもなく、侵略者の暴力で臨んだのでもなく、これら数百万のソヴェト市民ははっきりその眼、その心で、自分たちの建設しつつある社会主義社会の生活面を、旧世界の中世封建の霧がかかった中部ヨーロッパ諸国の人民生活と対比しないではいられない立場におかれたのであった。このことは、ソヴェト社会生活と文化との将来の発展とその独自性の確立のために、じつに深い影響をもっていると推察される。一九三〇年ころ、ソヴェト市民はドイツから機械工をよんで、精密機械製作について学ばなければならなかった。造船技術はピョートル一世がオランダ人から学んだ。ソヴェト市民の淳朴な感情には、民族的偏見というものがなくて、文明的な先進国として、資本主義国の文化にたいするものめずらしさや、判断を加えることを遠慮する感情があった、最も単純な列として、女のひとたちのフランス白粉や靴下への愛好があったように。生産技術の面でのこういう後進者としての自覚は、ソヴェト市民に「追いつけ、追いこせ」の二十五年間を可能にした。同時にまた、文化の面では、アンナ・アフマートヴァのフランス香水の残り香のする老いた桃色と紫色との詩にちょっと魅せられるような気分をも伴った。ソヴェトの美術・音楽の上にあるフランス美術・音楽の影響は顕著で、ショスタコヴィッチのような現代の才能でさえ、初期には混乱したフランスの近代音楽に追随していた。シーモノフが日本へ来たとき、文学者の座談会で、ソヴェトでよまれている外国作家はどういう作家たちか、という質問をうけた。彼はそのとき、アメリカの作家としてスタインベック、フランス古典第一位にバルザック、つづいてフローベール、モーパッサン、スタンダール、メリメ、マルセル・プルーストらの名をあげた。バルザック研究がソヴェトの学者グリフツォフ博士によって行われているというのは肯けたが、「脂肪の塊」「女の一生」のあとは大したもののないモーパッサンが数種出されていて、ロマン・ローランやマルタン・デュ・ガールがよまれていないのは奇妙な気がした。メリメの面白さは、その手法とともにソヴェト作家に与えるもののあることが理解されたが、マルセル・プルーストは、単なるエクゾチシズムでよまれるのだろうか。潜在意識の世界に文学をうちたてようとしたプルーストたちのイギリスでの後輩ヴァージニア・ウルフの生と死とは、私たちに、現代ソヴェト文学の道とプルーストの道がどこかでつながっているものとして理解しがたかった。「スクタレフスキー教授」の作者の心理主義の傾向に、こういう外国文学との近似性が感じられるにせよ、ソヴェト社会は、その構成と運行の基本をフロイド風の「無意識」の決定権にゆだねているのではないのだから、作品もリアリティーにおいて分裂し失敗している。リベディンスキーの作品「英雄」が一九三〇年前後のソヴェト大衆から逃げ場のない批判をうけたのも、彼が新しいおもちゃとしかけた心理分析の興味とそれによる失敗のせいであった。
 シーモノフは若い強壮な肉体と精神をもち、人生をたのしむ力も学ぶ力も大きい作家だと思われる。日本へ来て、モスクワへ帰ってすぐアメリカへ行った。シーモノフのような作家がアメリカの社会生活を経験するということは非常に有益である。彼自身のために、またソヴェト社会とその文学のために。なぜならば
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