したり、アフマートヴァを魅力あると思いちがえしたりしたのだろう。ジダーノフの報告には、それらの雑誌の編輯者が、「友誼上」公私混同したと表現されている。ジダーノフは二つの雑誌の編輯者が、苦しまぎれにした弁明を、いちおうまともに受けてやっているのだとしか思われない。なぜならこのごろ、日本のような稚い民主社会の編輯者たちでさえ、まさか社長や主筆の「友誼的」推薦原稿をそのままのせたりはしなくなっている。『星』に編輯会議はなかったのだろうか。『レーニングラード』編輯局はただ一人で構成されていたのだろうか。
読者にうけるという編輯、出版者にとっての最大誘惑に、『星』も『レーニングラード』も負けたのだと思う。作家もこの誘惑には負けやすくて、思わぬ作家が思わぬ顛落ぶりを示した例は、日本にもどっさりある。いちじるしい顛落はしなくても、「中国文芸の方向」のなかで警告されているとおり、作家がこれによって自大主義に毒されやすい。文学上のボスになりやすい。
ゾシチェンコやアフマートヴァが、それなら、どうしてソヴェト市民の一部に好かれたのだろう。ちょうど第一次五ヵ年計画のはじまる前後、一九二〇年代の後半、私がモスクワにいた時分、エセーニンの詩が一部に愛好されていた。エセーニンは、さまざまの問題はあろうとも、詩というものをつくった詩人であったことは疑いない。彼の哀愁にみち、生きる目的を見失った、旧きロシアの魂のメロディーをくつがえす詩は、一部の人にもてはやされた。そしてある種の外国人はソヴェト文学はファデーエフやショーロホフによって代表されるという概括に反対して、いや、今でもエセーニンの人気は大したものだ、と抗議した。微妙な心理から、ニュアンスをもって、エセーニンの名を執拗にあげた。そういう人々はソヴェト同盟の社会生活の心理には、いつでも『プラウダ』の肯定しているのとは違った底流れがあるということを、生活感情が分裂懐疑している自分たちの文化の本質を計らずむき出しつつ、興味をもってつつきまわす人々であった。
ジダーノフの報告にあげられているゾシチェンコやアフマートヴァの例を、二十数年昔にエセーニンについて示したと同じような感情で見る人々も、ひろい世界にはあるだろう。しかし人類の発展を良心的に歴史の歩みにしたがって理解しようとしている文学者にとって、第二次大戦のなかった昔と、その後の今日とでは
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