で、やっと半封建の圧力からのがれはじめた人民が、民主社会を実現しようとする複雑な努力のかたわら、どんな自身の文学・芸術を持とうとしつつあるだろうか。文学者たちは、そのためにいかなる貢献をしているだろうか。ジダーノフの報告や毛沢東の記録は、私たちの反省と研究心とを刺戟するのである。

 ジダーノフの報告の前半は、主として、ゾシチェンコの「猿の冒険」という作品とアンナ・アフマートヴァの詩の批判に当てられている。ところが、日本の読者にとって、ゾシチェンコはほとんどまったくなじみがない。作品で翻訳されているのもおそらくないだろう。これは日本の出版屋が、目ざとくて、すこしでも評判な作品なら、最も誇大にかついで翻訳を売りだしてきた慣例に照らしあわせてみて、なかなか興味ふかい現象であると思う。つまりゾシチェンコは、少くとも外国へ、これがソヴェト作家の代表であるとおし出すにしてはあまり陋小な文士であったのだ、ということである。これは私たち日本の作家が外国人に、誰を推すか、と訊かれたときの心持を思い出してみればよくわかる。
 ほんとうの文学作品であるとはいえないけれども、国内ではなにかの理由で存在している作家や作品というものは現実にある。現在日本のジャーナリズム文学を大幅に流れているデカダンティズムやエロティシズムの傾向とその作家たちは、けっして日本の現代文学の代表として推される文学的価値はもっていない。「横になった令嬢」を外国語に翻訳させたいと思う日本人はいない。だが、国内のジャーナリズムにはそういう作品も作家も存在している。文学の問題は、そんな作品が、なぜ今日の日本の社会とジャーナリズムの上で発生し存在するかというところにあるのである。日本でこの文学上の問題を追求すると意外に深刻な答えが出てくる。それは紙の問題である。営利出版は一巻の紙から最も高率な利潤を求め、必ずうれることを求める。その結果一番うれる最低の安全性としてエロティシズムに陥っている。これは出版関係の専門家の解剖である。
『星』や『レーニングラード』は営利雑誌ではない。先ごろ来朝していた作家シーモノフが、日本の出版界にもそれを衷心から希望したとおり、ソヴェト同盟の出版事業は直接に人民文化の仕事として企画され運営されている。どうしてそんないい条件の『星』や『レーニングラード』が、くだらないゾシチェンコに叩頭《こうとう》
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