に、なぜ作家は、陳雲が諷刺しているような畸型的「家」に自分をしばりつける必要があるだろう。私たち日本の民主的作家は、過去の日本の半封建の社会生活が、東洋においても西欧においても、どんなに貧弱にしか人類の幸福のために貢献しなかったかということを認めている。そのためにこそ日本文学は、その古典も現代作品も、世界にひろく生存していない。けっして、保守的で独善的な一部の人のいうように言語・風俗の特殊性だけが決定的条件ではない。それらの不便は、より重要な必要が生れ、要求がおこるなら、なにかの方法が発見され必ず克服されるのである。東京裁判の進行を見よ。
 日本の民主化をのぞみ、そのために努力する人民とその作家は、いまこそ、世界において侵略のモメントでばかり自己の存在を示してきた日本を、別のものにしようとしている。東洋における民主化の推進者、その参加者、平和の確保力の一つとしてあらせようとしている。これが日本の社会の発展的な方向であり、これが各個人・各才能・各幸福の実現に通じる道である。日本における民主的文学の高揚といっても、それは実際において日本の社会生活の諸面での民主化が進捗しなければ不可能である。そのために、民主的文化人・芸術家・技術家すべてが、精力をつくして働かなければならない。ちょうどソヴェト社会が社会主義に徹底すればするほど、ソヴェト文学とその作家の存在価値は国際的重要性をもち、しかもそのためにこそ、すべての芸術家が、その芸術を通じてある必要の時期には五ヵ年計画に協力したし、必要の危機にはその生命を前線にさらした。私たちは率直に、まず自分の存在のためにあるべき社会をあらしめなければ、自分のありようもないことを、認めなければならないと思う。昨今、日本では、いためつけられつづけた日本のインテリゲンツィアらしいひきつれ、歪んだ方法で、政治と芸術の課題がいわれはじめてきた。政治と文学との最もひろい血肉関係は、ジダーノフの報告を学びつつここまで触れてきた、社会と文学との関係の検討のうちに暗示され、語られたと思う。あまり暴圧的な少数者の施政と政策との犠牲となってきているものだから、おじけづく癖がついてしまっている。政治ときくと、ただちに命令・統制・拘束を思って、手足をこわばらせ息をつめ、鞭を見た奴隷のように理解力を失い愚鈍に陥ってしまう。その同じ人々が、三十五倍の都民税をはらう義務
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