は遂行し、所得を実質的には1/3にしてしまう所得税をはらい、言論抑圧に等しい紙不足に服し、あれこれの投票をして社会生活をしていることについて我から怪しまないのはふしぎである。現に自分が屈伏しつつある少数者政治には無抵抗であるが、そこから解放しようとする政治――自分も民衆の一人と知るならば、その民衆生活の向上と文化の確立のための階級的な進歩的な闘争を意味することが、どうして不自然なのだろう。今日の日本のインテリゲンツィアのいじめつけられた病的な思考力は、文化・文学にたいする政治の優位という言葉そのものをさえ、情報局的本質にしかのみこまない。自身の生きる人民階級の歴史的達成の方向・方法のうちに包含される人間の社会現象としての文学として自然に感じとれない。これはこれまでの日本人民が、有識人でさえも、自分で自分の社会を進展させ、破壊し、建設してきた経験がなく、社会的な自主的なやりかたを知らないということの告白にほかならないのである。今日の日本において、政治と文学と、政治の優位性の課題は、深甚な意味をもっている。この課題に、日本の民主化の人民的な実感性がかけられている。
 ジダーノフの報告も、「中国文芸の方向」も、ともに政治と文学との関係を正当自然に、それぞれの社会生活の現実関係に即して理解させようとしている。どこの国でも、政治の優位性ということは誤解と偏見とを招く危険があると見えて、陳雲は、いかにも東洋の賢こさで次のように表現している。「われわれの規律は、ただあの非無産階級的な、革命を妨害するものどもを束縛するだけで、それはちょうど游泳術が游泳する人にたいして、ただ彼が溺死しないように束縛するだけであるのと同じ」である、と。
 最後に、ジダーノフの報告のうちに、警告とし強調されている政治性、階級性、思想性などが、文学的創作の具体的経過のうちで、どのように生き高めらるべきかという問題がある。私たちに、わかりやすい実例をとるならば、そのために、ソヴェト作家同盟はゴルバートフに時間を与え「降伏なき民」を、もう一度手入れさせ、真の現代古典としてのこるにふさわしいだけもっと大切な歴史的細部を充実させ、もっと主要な諸人物を典型として確立させる機会を与えることも、一つの方法である。全篇の構成をもっと研究し、ある部分ははるかに短縮され、ある部分は描写の場所をその必然にしたがっておきかえられ
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