、自身の生活的実感において国際的になりつつある、その現実からこそ、揚棄されてゆくのである。
ソヴェトの人民国家が、あらゆる偏見の内部においてさえ確実に占めつつある国際的な存在意義にともなうその文化・文学の国際性は、ドストイェフスキー、トルストイ、ツルゲーニェフらがむかしも今も有名であり、ゴーリキイがパリで演ぜられ、チェホフはイギリスにガーネット夫人という自身の翻訳者をもった時代にくらべれば、本質的に飛躍している。前時代の大作家たちは、西欧のひととおりの「文明」が、真摯にとりあげる習慣を失った社会的矛盾の諸苦悩、無知の歎き、無権利な人間の高貴な憂悶などにおいて、西欧とアメリカの知識人をうった。彼らを快よく厳粛にし、彼らに人間的自覚のよろこびを与えた。この大戦中から、ソヴェト文学が世界にもちはじめた読者との関係は、前時代のこの段階をとびこした。それは動きだした。自身の出血に耐えながら人類の正義と解放のためにその社会主義祖国を防衛することで、同時にフランスとドイツの人民的自由を、アメリカとイギリスの進歩的な良識を、防衛し解放する実行者、そのリアルな語りて、平和のための不屈なたたかいてとして、ソヴェト文学は世界の関心にたち現れているのである。二十世紀のはじめピータア・クロポトキンがボストン大学で「ロシア文学の理想と現実」という有名な講義を行った。その当時の内容では、とても予想されがたかった達成が、ソヴェト文学の本質となりつつあるのである。
ジダーノフの堂々として正確な、心情に訴えるソヴェト作家への忠言は、わたしたち日本の作家からみれば、まだまだソヴェトの作家の独自性のよろこびと自覚とにたいして、ひかえめの注意しか喚起していないとさえ感じられるのである。ソヴェト作家が、ソヴェトの人民国家の諸経験、諸成果、痛苦なその失敗から学び、描き、物語らないで、どこに彼らの創造的情熱の源泉がありうるだろう。ソヴェト作家は、ソヴェト人民国家の一員である以外にありようはない。この現実のうちに、かぎりない未来の達成と今日の未完成とがあり、文学の生粋なモティーヴがある。そこに作家が生きている社会は、過去のどんな社会の模倣でもないとき、作家がどうして、旧いもの、おくれたもの、足の萎《な》えたる文化の模倣をしなければならないのだろう。そこの社会こそ人間らしい立体的人間性の発展のためにつくしているの
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