歴がもたれなければならない。社会の歴史にも同じことが必要である。感性的にだけ生きた人にとって生存はあったが、生活と人生とはもたらされないし、創りだされない。きわめて意識的に、計画的に、具体的諸方法をもって、この地球五分の一の地域に、最も前進した民主主義社会を築きあげているソヴェト同盟の市民の一部にしろ、自身の偉大な勤労とその献身の意味、自身の刮目《かつもく》すべき力闘と勝利とが、全世界の平和とその推進のために、どんなに重大な価値をもっているかということを、全生活感情で自覚しないとすれば、それはこの市民たちが現にその中に生きつつあり、それを建設し豊富にしつつある社会の本質にたいして、あまり意識する能力が立ちおくれているということになる。なぜならば、社会主義的民主主義の社会は、現世紀における人類の最も覚醒した全目的の社会形態なのだから。二世紀昔のスウィフトの馬には及びもつかないゾシチェンコの猿にひきまわされて、自身の尽瘁《じんすい》と価値の上にゲラゲラ笑いのつばをとびちらしているとしたら、それは忍びがたい光景ではないだろうか。ちょうど私たちの日本で、天皇制権力の犯した狂気のような国際的暴行と国内における抑圧を、ひしとその運命にうけてきながら、そこからの完全な解放をかち得ようともしない民衆と作家とがあるとすれば、そのあまりの暗愚と卑屈さがくちおしいことであるのと同様である。「魂の技師」として責任ある作家の一人であるゾシチェンコがソヴェト市民の無邪気な意識の立ちおくれを、次第にあくどい嘲弄のための嘲弄の方向へ導いた場合、心ある読者が沈黙していられようか。民主的推進こそ日本のわれわれの生きる力の根源である時に、インテリゲンツィアにたいしては哲学ぶった「絶対無」の説教を与え、勤労階級には『赤と黒』『リベラル』その他の猥本類似の刊行物を氾濫させ、新聞は用紙不足で半紙ほどのものにした支配者たちの文化政策にたいして、心ある日本の市民が黙視できないのと同じことである。
ゾシチェンコ、アフマートヴァなどの実例によってソヴェトでは文学・演劇・音楽・映画の全部門に自己批判がひきおこされた。文学分野でのことは、ソヴェト作家同盟が処理すべきことで、ジダーノフの報告をまたないでもよかろうという考えかたもあり得る。しかし実際問題として、レーニングラードの作家同盟、もしくはモスクワの本部が、それらの
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