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ソヴェト市民は一九一七年以来文盲撲滅を努力的に行って、もとはインド、中国と並んでいた文盲のロシア人民を、啓発してきた。本を読む人口は全人口の尨大な部分をしめている。これはシーモノフなどの文学作品の発行部数が数百万部というのでも想像される。これらの新しい読者階級は、もとのようにすでに読むことにすれている有識階級の範囲にとどまっていない。男女の農民・兵士・工場の労働者・学生・教師・政治活動家・芸術家、広範囲にひとしくよまれる。したがってその理解の段階も複雑であることが思われる。
民衆精神のうちにはいつも鋭い諷刺の精神がある。日本の徳川末期、町人階級はそれを川柳・落首その他だじゃれに表現した。政治的に諷刺を具体化する境遇におかれていない鬱屈をそのようにあらわした。十八世紀のイギリスで、当時の上・中流社会人のしかつめらしい紳士淑女気質への嘲笑、旧き権威とその偽善への挑戦として、スウィフトの「ガリバア旅行記」が書かれた。その国で、諷刺文学がどんな形式と内容とをもって発展してきているかということは、意味ふかい観察眼である。ゴーゴリの「検察官」と「死せる魂」その他の意義はどこにあったろう。ガルシンの「赤い花」が西欧の読者の胸をうったのは、そのシンボリズムが何を語っていたからであったろう。
公然と条理をもって、しかも人間的機智と明察をもって、どこまでもユーモラスに、だが誰憚らぬ正気な状態において諷刺文学がありうる処と時代に、スカートの中を下からのぞくようなゲラゲラ笑いが、笑う人間の心を晴やかにするとは思われない。自分たちの社会主義社会を防衛するという必死の集団的行動において、おのずから英雄的であったソヴェト市民の一人のこらずが、その難の終った後、いっそう深くその行動の世界史的価値を自覚するということは期待しにくかろう。少なからぬ人にとって、それは当面したさけ難い困難・必要として全力を傾けて克服したのだが、その経験は感性的に経験されたにとどまったであろう。感性的経験は時間に洗いながされる。それだからこそ、勇士と生れついていないすべてのおとなしい平凡な人々さえも、生存の必要に当って英雄でありうるのだともいえる。すべての女性が生みの痛苦に耐えうるように。しかし個々の意識人の人生において、経験は蓄積されなければならず、批判・発展が継続してされなければならず、その結果としての閲
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