された動機は商売気でも、何等かの意味で日本女性の一九二六年代のグリムプスといえる。その点、私は案外な興味を感じ、これを読んだ多くの書かざる女性、云わざる女性がどんな印象、反省を得たかひどく知りたく感じたのであった。この雑誌を二十年後とり出して読んだら、私にどのような感銘を与えるだろう。また、現在二十前後の、専門学校程度の女性はこれを何と読むか。売るために、所謂名のある女性だけを選び、何か書いて貰ったのは兎も角、そういうこれから何か仕ようという女性、現代の文明、女性の生活の各方面に批評を抱いて、更に一歩進めようとよき大望を抱いているだろう未知の人々の一言が、だが、あの中にどの位あったのか?
 私の興味を覚えたという言葉は、ここで満足を覚えたという意味とは違うと、説明する必要がある。この理由の説明は省くが、あれ等の記事の中で特に注意を牽いたものの一つに堺真柄さんの女監一巡がある。
 あれを見出した時、私は自分の裡から湧き出す期待をもって読んだ。数年来、私は女性を監獄ではどう取扱うのか知りたいという欲望をもっていた。売笑婦の研究、不良少女の研究、それ等は活動的な女性によって、或は社会研究者である男性の手によってされている。けれども、女囚の生活、獄中生活が女性に及ぼす精神的の影響等は余り一般に知られていない。例えば免囚保護という言葉に、はっきり女性の免囚も含有す、という意識があるか。
 従来、女と云えば誰人かの娘、妻、姉妹、という附属的地位にあった。女性が刑務所を出てからどうすると云う問題も、彼女等に帰るところ、かえってから養って貰うところがあったので表面に出なかったのだろう。「仮令どんなによくしても監獄はよくならない」――人間をよくする処にはならない、とクロポトキンが云った通りだとすると、ここで数年を暮した女性はどうなって世に送りかえされるのであろう。
 男性の中には、自分の経験した獄中生活を記録した人が多くある。古から、古田氏まで沢山ある。種々なことをそれによって知るが、女性には尠い。私は寡聞にして殆ど女性の手になったものを知らない。一つには、女性の犯罪が原始的な故もある。獄中生活を記録し、批判するだけの教養があったら行わない犯罪が女囚には多い。それは頷ずけるが、教育あり、現代の社会に批判もある筈の人が、非常に不運な事情の廻り合わせで或る均衡を失い罪を犯し、獄中生活を経
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