験した場合でさえ、その制度、内容について客観的な評言が世に与えられないのは何故であろう。自分の行為に対する引責――刑に服したことと、経験した獄舎生活の研究とは別のものでありそうに思われるが、堂々たる立場によって発言する人はない。外部からでは役所の記録に表わされたことしか知れない。それ故、女監一巡が熱心を呼び醒したのであった。
 あの記事によって私共は日常行事を知り得た。衣類や食物や、行動の時間割などについて。紙数の制限があった故であろうが、余りそれだけすぎた。例えばそのような細部に於ても女囚が月経中まし紙と称して多少余計な浅草紙をいただかせて頂く、ということ。その非衛生な事実について筆者の意見が些も滲み出していない。皮肉さで、いただかせていただくという、恐らく特殊な用語例の一つが使われているだけだ。そのような卑屈な念の入った言葉づかいを強制されるとしたら、それが既に精神的問題の何ものかであろうと私は感じた。真柄さんは獄中の事実を書く時、生来の陽気性と親ゆずりの鈍感性のため、獄中生活が一生を左右する程のききめをもたなかったから、さも親しそうに監獄の生活について話せると云っておられるが、全文に微妙な神経質さ、嫌悪、その反動としての皮肉的語気が仄見えている、彼女の矢張り監獄は辛いところだという意見が正直で人間的で私に好感を与えた。それだからこそ、或る意味で人生の闘士の一人である筆者のような人が、只、辛いところです、ではいけないと思った。私はいつか、同じ筆者が、もう一重事実の底に沈み、同時に客観した記録を遺されることを希望した。
 同じ雑誌の、中河幹子さんの小論。女性の感情の深いところから生じる産児制限に対する質疑を暗示している点、自分と共通な或るものを筆者も持たれていると思い興味をもった。あれは未だ纏った考えと云うより、一つの暗示にすぎないから、女性中心思想によって敷衍された結論に猶考える余地があるとしても、その核心である女性のデリケートな自尊心については味うべきものであると思う。所謂進歩し、懐疑なく性生活を支配している新女性にとっても。
 中河さんが、右は冗談にあらずという断り書をつけ、真面目に云っておられるのが、私を微笑させた。同時に愉快な感じを与えた。世の中には、浅薄な人間はそれをきいてただ笑うが本当は大切なことだという問題が多くある。人は、笑われても平気で正面から
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