世代の価値
――世界と日本の文化史の知識――
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)譬《たと》えられて
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)猶色|褪《あ》せぬ
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)高橋※[#「石+眞」、第4水準2−82−49]一
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私たちの日々の生活というものは、極めて現実なものであって、どんなひとでも、その人々の生きている時代とその人の生活の属している社会環境とから離れて生活を持つということはない。どんなに目立たない朝夕をつつましく送っているひとの一生をとってみても、その人の存在は先ず地球の上に現われている一個の人間であるということからはじまって永い人類進化の歴史につながっている。更にその人が人間であるというだけではなくて、人間であるからには必ず地球上に今日それぞれの特徴をもって存在している国というものに結びついて生活しているのであるし、その意味では広い人類の世界歴史のそれぞれの一部を構成している国の歴史がめぐりあってゆく運命と決して切りはなされることが出来ない。その国の歴史の動きというものはまた実に複雑な性質をもっていて、決して手品師の一本の棒の上でまわっている一枚の皿のようなものではなく、種々様々の国内の社会構成の力の消長によって推移する。その複雑ないくつもの社会的な力の摩擦融合の根源は、世界史の一部分として生きているその国が、自身の存在のために日夜行っている自転と、自転しつつ二六時中国際的諸関係と接触してその間の関係に変化を生じさせている、その二つの重なりあった歴史から生じて来るものである。
そう思って考えてみると、今日の日本に生まれて生きている一人一人の若い女性たちの生命の意味というものも、何と深い広い内容をはらんでいることだろう。私たちが或る国の或る時代に、或る親たちから生まれたということは、それだけの範囲に限ってみれば全く偶然だけれども、生まれて、生きてゆくという自覚を持つようになってからは、その生を最大の可能まで花咲かせて、次の世代につたえるべき者としての歴史的な必然が生じて来るのは面白いところだと思う。よく世間には自分が希望して生まれたのではない、ということから、自分の生存の偶然性を云って、自分の生きてゆく時代のその国の歴史や世界の歴史に対して、自分なんか責任はないという気持を表明するひとがある。そういう考えかたは人間の生活の真の美しさ、よろこばしさ、面白さを理解していない言葉だと思う。生まれたという偶然が、生活してゆくという人間の創造的なより高貴な必然にかわる瞬間は、歴史というもの社会というものの力で生活が支配されている一方、常にそれに働きかけそれを作ってゆく者として自分を現してゆくという微妙ないきさつの中にひそめられている。歴史によってつくられている一人一人の人間が、結局は明日の歴史のつくり主であるという興味尽きない活動性の流れのなかに、私たちの生の刻々も燃えているのである。
今日の私たちの生活は、遙かに遠い遠い昨日からつづいたものであると同時に、悠久的な明日の希望へまでもつながったものであって、今日の生の意味は、時間的に過去と未来とをうけわたすばかりでなく、明日へ何かよりよきものを齎そうと願う人間の熱意の表現であり具体化であるところに意味があるのである。
多くの人々は、一個の人間の表面的な弱さや生命の短かさやについて感じやすい心をもっていると思う。けれども、そのように弱くもあり百年も生きない一人一人の人間の生命と生活というものに、どんなかくされた蓄積と期待すべき未来までへの可能が蔵されているかということについて、おどろきを新にする感動は、割合忘られがちなのではないだろうか。自分のうちにそのような可能を発見しそれを信じ、その実現のために最大の骨折りを惜しまず生きとおす者は、それは人類のなかの人類、人間の中の人間であるということを、明瞭に知って自分の生活の感情としようとしているひとは、果して何人あるだろうか。
女は昔からよく大地に譬《たと》えられて来ている。それは、女が母となって人間の世代を絶やさぬ豊かな土壌であるというところから云われるのであろうし、また、大地は一応うけ身におかれているということからでもあるだろう。大地の歴史は、人間の出現とその人間たちの大地への働きかけが始まった日から始まるのであるから。
昨日から今日を生きて明日を生む歴史の担いてとして、女はこれまで随分生物的にばかりその任務を果してきたと思う。人間のこの社会への誕生は偶然であるがやがてその存在の価値は必然にかわってゆくという意味ふかい歴史の発展へのかかわりを、女のひとは、娘から妻となり母となってゆくという生理の過程を中軸にして辿ってきていたと思える。愛の展開も従って本能的に行われて、女の母性的な愛の本質は非常に豊かに潤沢なものである筈なのに、女の歴史のくりひろげられる場面がそれぞれの家庭という墻《かき》の内に限られていたとおり、愛の作用まで無意識の狭さを与えられた。女は愛情ふかいものとされながら、その愛は主観的で、身のまわりだけに没頭の形をとって来たのであった。
現代は、世界史が一つの画期をつくり出しつつある時代で、その中での日本も未曾有の複雑な転回を示している。時々刻々に社会全般の生活が動いて行っていて、その動きの中では種々様々の声と行動とが主張されている。しかし、一つの声なり行動なりがそれ自身完結完成しているということはあり得無いのだから、今日から明日へつづく現代の歴史的な推移の間で、私たちは自分たちとしての生のモラルを掴まなければならず、現代に生れあわせた最高の可能を知らなければならないのだと思う。外見の上では、昨日までの幾千万の女性たちが経て来たとおり、妻となり母となる形で自分の生を拡大してゆくにしろ、今日の若い女性は既に自身のその過程に対して無意識ではあり得なくなっていることは確であろう。女だから子を生む。そういう単純な生理に従うだけでなく、次の世代としての子供らの母となるという社会的な自覚と責任の中によろこびを感じようとされて来ている。その自然な力づよい生のよろこびの確保のためにも、自身の愛の成就のためにも、私たちは自分たちの時代が、いかにきのうにつながり、いかに明日にくりひろげられてゆくかということについて無知であり得ないと思う。歴史が現代のように強烈な動きを起している時代にあっては、生のよろこび、愛の成就そのものも単一平坦な道を通ることがむずかしくて、ある場合には殆ど耐えがたいような悲傷、痛心を耐え終せて、自分たちの愛を完うせざるを得ないような場合も殖えて来ているのである。
勇気とか堅忍とかいうことがしばしば云われるが、勇気や堅忍を可能にする力は何によって湧くのだろう。生活の意味に対する明るい知と愛とを抜いて、人は真に勇気に満ちることも堅忍であることも不可能である。勇気とか堅忍とかいうものは、結果ではなくて一つの行動の内面的な弾機《ばね》である。私たちが日々の生活で、歴史からつくられた者であると同時に歴史をつくりつつあるものであるという現実の価値をはっきりわがものとして感じとったとき、小さい一つの行動も深く大きいその自覚に支えられているとき、私たちは本当の勇気と堅忍との沈着で透明な喜悦を心に感じるのだと思う。
生の喜悦は、現代ではますます精励な人間の精神と肉体とにしか感じられないものとなりつつあるのである。私たちはただ一度しかない自分たちの生をどんなにいとおしんでいるだろう。どんなにいい価値でそれを発揮させたいと切望しているだろう。今日と明日とのよりゆたかな生活の確信のために、私たちが人類の文化の歴史について、日本の過去の業績について何程かの知識を増すことは、決して無駄ではないだろうと思う。
先ず、私たちの生棲する地球の上に、人類というものの生活はどんな風に発足して、発達して来たものだろうか。民族の分布、社会の発生、習俗の伝承、あらゆる科学・芸術はどんなにして生まれて来たのだろうか。それ等の問いに答えるのは世界文化史である。
私たちは西洋史も東洋史も国史も習って来たわけであった。けれども、今より進歩した欲求で人類の文化の跡を見直したいと思う時それらの知識は散漫なものだと感じられる。わかりやすく、やさしい本ということでコフマンの「世界人類史物語」(岩波文庫・上下二巻)を軽蔑する必要はないと思う。特にこの物語は著者コフマンの活溌な精神をよく映している。例えば人類が最初の火を自分たちの生活のなかにとらえて来たときのことについても、縫針というものを発明したきっかけなどについても、極めて活々とした人間の実験の精神・偉大な創意の導きとしての日常のささやかな思いつき、精神のこまやかな敏活さなどが、大切に評価されて描かれている。この物語のなかでは、そのように人類の創意性のよろこびが評価されていると同時に、伝説というものがはからず示している過去の不条理というものにも明るい問いかけを投げている。パンドラという人類のはじめての女性が、人間生活のあらゆる憂苦をもたらしたというギリシア神話の物語も、コフマンは何故ギリシア時代の社会生活が最初の女性にそういういやな役割を演じさせたかという、当時の女の地位にもふれて疑問としている。
この本よりも成人の読者のためにかかれたのが、ウエルズの「世界文化史大系」(北川三郎訳・上下二巻)である。ウエルズは第一次世界大戦が終って全世界が再建設の悩みにもがいていた一九一八年に、この尨大な著述に着手した。新しい世界が人間により幸福をもたらすものとして造られて行かなければならない。その希望と、当時の世界的紛糾動乱の間に歴史の進化してゆく必然の水脈を見出してゆく手がかりとして、一般読書人のため、常識の整理のために執筆された。地球の生成からヴェルサイユ会議にまで及ぶその内容は、各専門部門にそれぞれ専門家の知識が動員されていて、委員として四十何名かの学者たちが参加している。
北川三郎氏の訳による大系二冊は、努力の仕事であると思うが、本が大きくて机の上にどっしりとおいて読まなければならない不便があり、高価でもある。それに、この訳にはところどころに訳者插入の研究が自由にさしはさまれていて(例えば文字の部分にある朝鮮文字の研究など)そのような研究に特別の見識をもたない読者は何か戸惑いを感じるところもなくはない。
このウエルズの文化史大系が、よりまとまりよく整えられて「世界文化史概観」(長谷部文雄訳上下二冊岩波新書)となって発行されている。この概観は初め一九二二年に現れ、次いで一九三四年に改訂版が出た。ウエルズは大系を五分の一ほどに圧縮し、内容も殆ど全部かき直した。それはそうであったろう。一九二二年から後の十年間こそ今日の世界史の大動揺がその底に熟しつつあった深刻な時代であったのであるから。
「この書を通読してまず感歎することは、宇宙の創造から一九三三年までの世界の歴史をかかる小冊子に記述しながら、決して無味乾燥な材料の羅列に終らせることなく、これを極めて興味ふかい物語に編みあげ、しかも、その中に烈々たる文化的精神を織りこんでいることである。」という訳者の序文は、よくこの概観の特徴を語っている。ウエルズは、極めて興味ふかい言葉で、この文化史を結んでいる。「人間はまだやっと青春期にある。人間の苦労は老衰の疲労に伴なう苦労ではなく、まだ訓練されていないこれから増進する力量に伴なう苦労である。吾々が本書で試みたように全歴史を一個の過程として眺めるとき、すなわち生命の着々たる向上的闘争を見るとき、その時こそ吾々は、現在の希望や危険が全歴史上で占める真の意義を知るであろう。まだ吾々はやっと人類の偉大さの最初の黎明期に達したばかりである。」と。
ウエルズがこの文化史のなかで云っているとおり、現在世界の二十一億の人間の上に
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