輻輳している危険、混乱、厄災が全く未曾有のものであるのは、科学が人間に曾てなかった暴力を与えているからであると同時に、「恐れを知らぬ思想、徹底的に透明な陳述、および徹底的に批判された立案という科学的方法は科学の力を統制する希望をも人間に与える。」のである。執筆された時期からいって、この文化史は当然今日の第二次世界大戦の複雑な進行状態にはふれていない。慶応書房版ヴァルガの「第二次世界大戦の性格」は、立体的にリアルに今日の動きの諸条件と方向とを説明している。
この頃はヒトラーの「我が闘争」が一種の流行本となって、英雄崇拝的文化の感情を満足させているらしいけれども、あらゆる時代、何事かを為す一個の人の力は、実に複雑な歴史の動きに内外から影響され、それに影響するものとして現われるのであるから、さきにあげたような読書を背景として、この英雄的自意識のつよい一個の人の著作も読まれなければ意味ないと思う。女は英雄が好きという古来の皮肉は、女が自立的な人物評価の力を持たないことを語っているものであり、同時に歴史的に人の動きを把握する力を持たなかった今日までの文化の低さへの諷刺である。
ウエルズの文化史は、世界的に進出している日本について或る程度までふれている。世界史のどの舞台を見ても日本は見当らなかった過去の在りようと、この点は大変ちがって来ている。けれども、私たちは自分が生れ、そこで一生を閲《けみ》し、そこに死ぬる故国としての日本については、世界史との関係の中で更に一層細かに具体的に知りたい心をもっている。
この要求に立って考えて見ると、世界史と各国の歴史との扱われかたが、従来の文化の中では何と機械的であったろうかと愕《おどろ》かれる。世界史は何となく常にヨーロッパ、アメリカ等を中心として語られて来ていたし、各国史としての日本史はその反対に世界史との横の結合なしに自家製に語られて来ている。その中に入ると、歴史的現象は次々へ繰りひろげられているけれども、歴史的現象のその奥に横わっている筈の真の社会的条件の推移にまでふれては理解のてづるが与えられていないのが常だった。
日本文化史総論(遠藤元男著・三笠書房・日本歴史全書第一巻、定価〇・九五)は、そういう世界史との横の感覚も常に保ちつつ、先ず日本の社会と文化の項で、時代、地域、社会、民族と文化の関係を説明し、日本の文化の姿相と性格との項で原始時代から今日と明日の文化までを考えている。ただ明日の日本の新しい文化を、ますます民族的であるだろうと予想しつつ、その特性を農村的であるだろうと断定している著者の見解は、今日の日本のものの考えかたの或る形ではあるけれども、必ずしも永い未来にわたって文化の進行の現実の諸条件を全面的にとらえた結論であるとはいえない。このことは、おそらく著者も承認されていることであろうと思う。
同じ歴史全書の日本原始文化史(樋口清之著)があり、日本近代史(小西四郎著)があり、明治の新社会の生成過程を語っている。この小さい日本近代史を中心として、私たちは巻末にあげられている参考文献表の中から、「明治維新」(羽仁五郎著・岩波書店・日本歴史所収)や「新日本史」(竹越与三郎著)などを選び出して読むことが出来るし、日本評論社が出版した「明治文化全集」(二十四巻)も折々の有益な資料として記憶しておくことは便利であろう。
「日本経済史概要」(土屋喬雄・上下二冊岩波全書)は、日本文化が経済条件の向上推移につれて変化して来たその土台について語っている興味ふかく学ぶところの多い本であると思う。この本に沿って、三笠書房の歴史全書中の「洋学論」(高橋※[#「石+眞」、第4水準2−82−49]一著)が読まれたなら、著者が一つの情熱をもって、祖先たちが世界の真理の到達点を、わが封建の日本へ新しい力として齎そうとした努力の価値を語っていることを知ることが出来る。東洋経済新報社出版の「現代日本文明史」第十四巻「技術史」(三枝博音著)も、過去の文献を有効に活かしていて、やがて続刊されるであろう同全集中第五巻「法律史」(宮沢俊義、中川善之助著)第八巻「産業史」(土屋喬雄著)第十三巻「科学史」(石原純、菅井準一著)などとともに、勤勉な読者のために役立つだろうと思われる。
思想史としては、岩波書店版の「世界思潮講座」が、各種の読書手引にも紹介されている本である。日本をこめた世界思潮を知る上に役立つ本にちがいないけれども、すこし読みにくい編輯方法である。一冊の中に一つの題目がまとめられていないで、全十二巻のうち、たとえば文芸復興については一巻、三巻、五巻、八巻、九巻と、縦にその一部分ずつが編輯されているというような工合である。しかし、そのような読む上での不便はあっても、やはりこの講座は歴史上の各思潮の歴史と影響とを偏らずに解説して、文化史上の卓越した人々の伝記をも集めているという点で、今日の若い人々のためには特に有益なものだと思う。
「文学史」として、やはり岩波講座の「世界文学」と「日本文学」及び、日本評論社の「日本古典読本」(十巻)および同じ発行所の「日本文学入門」改造文庫「欧洲文学発達史」等をあげたい。「日本文学入門」は明治以来昭和十五年までの日本文学が観察されていて、文献がこまかくあげられているとともに、国文学というものがいかなる方法で研究されるべきかという点について新しい考察もふくめられている。
大体、文化史というものは、何となし私たちに親密に感じられてとりつきやすいと同時に、その文化についての述作の中には様々の夾雑的要素がまぎれ込んで来やすい危険がある。文化の観念は、ウエルズの所謂《いわゆる》青春的現代の紛糾にあって必ずしもいつも明徹であるとは云えず、昨今は、文化の研究は学問的に、つまり客観的真実に立ってされるべきものであるという第一条件において動揺している例が必ずしも無くはないと思う。原始文化の土器について語るとき冷静である著述家も、今日と明日の文化について語るときは主観的な時代的な亢奮を示している例もあるし、ある場合には、著作者自身には知られているだけの客観的知識を、そのあるがままの現実で示されていない場合もある。文化について文化的[#「文化的」に傍点]に書かれている本の非学問性という点を、特に今日私たちは心しなければならぬのでないだろうか。
こう語って長谷川如是閑氏の「日本的性格」(岩波新書)にふれると、さながら、そういう危険にさらされている著述の代表のように思われて著作にすまないようだけれど、この本はおそらく興味をひくその書名からも随分広汎に読まれている本だろうと思う。従って、この本のよさと読者としての不満とをはっきり語られても失礼ではないだろう。この本は、第七章から後の方が、初めの部分より現実的に客観的に書かれているというところが甚だおもしろい。
さきにあげたいくつかの日本史に関する本を読んだ人、または本庄栄治郎著「日本社会史」(改造文庫)一冊を理解している読者は、「日本的性格」の中に語られている文化伝統の解釈について、いくつかの疑問を抱かずにいられまいと思う。例えば日本の貴族は、西洋の歴史にあらわれるような侵入的な外国的存在ではないから、その貴族文学とそこに語られている心情は当時の全国民のものであるという断定での、貴族のエティケットが農民にまで及んでいるのが日本の性格であるというような結論は、何となく読者にうけがいがたいばかりでなく、筆者自身、後段の「日本文化の成立」の中では、そのより正当な解明を与えている。今日の読者は、一人の筆者においてあらわれるこのような或る種の矛盾に対して、文化的明察の敏感性をもたなければならないと思う。そのような矛盾のよって来るところを我が文化の当面している問題として考える力をもたなければならないのだと思う。
民族の性格や個人の性格を語ることは非常にむずかしいことであるが、一貫した真理は、それ等を決して固定的に考えてしまえない、ということではなかろうか。例えばこの「日本的性格」に日本の性格の本質として「中間的」であることと「簡素」であることと「謙抑」であることとが云われているが、現代の性格として私たちの日常は周囲にその文字どおりの気風を感じながら暮しているだろうか。簡素であるということは単純でもあり淡白でもあるということになるだろうが岡崎義恵氏の日本文学研究の中には、淡泊であることが「生命力の稀薄のあらわれ」と見られてもいる。単純なものが俄に複雑な事象に面してどのような混乱に陥り、性急に陥るか。性格は動くものだ。過去によってつくられているが、やはり生活の刻々のうちに未来に向ってつくりつつあるものであろう。
日本的な性格の特徴を肯定するとき、それと対照的な性格の質を、説明なしでより望ましくないもののような語調で語ることも、文化を正しく把握する態度ではなかろうと思う。日本の女の服装は華やかさを内にひそめたものであり、外国の女はけばけばしい許りの原色を使うというような対比も、それをよむ日本の若い女性は、何となしはにかむだろうと思う。西洋の女の服装が、ただけばけばしいばかりのものでないことは、灰色の美しい扱いかた、黒の微妙な調和の手法を、日本の近代人はかえって西欧の洗煉された色感から学んでいることを、女性は知っているのである。「日本的性格」の筆者が、近代の日本人が、日本の美を発見するために、いつも先ず外国人の評価をさきにしてそれに追随して来た態度に注目しているのは、まことに興味あるところと思う。それを不甲斐ないとしているのも、至極もっともなことである。だけれども、残念なことに筆者はその現象に注目して不甲斐なさを感じただけで、何故そのようなことがおこって来ているか、その文化的な原因まで追求していない。そのようなところにも、計らず日本の性格の中間的であり、簡素さが現われているのだろうか。明治以来の社会生活の急激な推移は、わるい形で外国崇拝を習慣づけているばかりでなく、日常の生活感情をも多面的に変化させている。過去の芸術上の美は、改めた目で見直され、改めて美しさのそれぞれの典型として歴史の中に評価され直さなければ、後代の生活感覚の中にそのまま共感され難いところがある。ところが、ブルーノ・タウトの「日本美の再発見」の桂の離宮の美しさの描写にしろ、外国人であるタウトはそれぞれの手づるによって国の美の宝石を夥しく見る機会を与えられたが、この国のものが果して何人、礼服着用とたやすくない紹介のいるその建造物の美に直接触れているだろうか。絵画についても、彫刻についても国文学上の原典についてもそれは云える。このことは、明かに自国の文化の評価に対して私たちの負うている一つの負の面である。それとともに自分たちの持っている文化の研究が従来はとかく主観的にそのものを構成している諸要素の内側からだけ語られたと思う。日本の美の一つの要素である省略の趣向は、どのような生活感情からのつながりとして現われているのかと外から見て行かず、それが日本人の直感的な性質であるからと結論で示されてゆく傾きがあった。しかし近代日本の精神は一般に、より科学的に高まっているから、やはりそこに分析と綜合の精神活動が求められ、それを通じて美をも一層豊富に感得したい欲望、即ち、世界の美感の中へつき出されて猶色|褪《あ》せぬ美としての美しさを感じたい欲望をもっていると思う。その心持が、外国人の優れた新鮮な感受性に映って整理され、美の認識として再構成された美の評価を好むということになって来ていたのだと思う。日本文化やその美が、日本の学問の対象としてもっと理性的に学問的に取扱われるようになって来れば、日本文化は遂に自身の評価者として自身の文化を持つようになって来るわけであろう。
文化の価値について云われるとき、外国人は元よりのこと、多く完成されている古典を対象とする習慣も、その理由はうなずけるが私たちには或る物足りなさを感じさせる。云ってみれば、一定の文化水準にある者には、外国人に日本画の美しさがわかるように、日
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