学とそこに語られている心情は当時の全国民のものであるという断定での、貴族のエティケットが農民にまで及んでいるのが日本の性格であるというような結論は、何となく読者にうけがいがたいばかりでなく、筆者自身、後段の「日本文化の成立」の中では、そのより正当な解明を与えている。今日の読者は、一人の筆者においてあらわれるこのような或る種の矛盾に対して、文化的明察の敏感性をもたなければならないと思う。そのような矛盾のよって来るところを我が文化の当面している問題として考える力をもたなければならないのだと思う。
 民族の性格や個人の性格を語ることは非常にむずかしいことであるが、一貫した真理は、それ等を決して固定的に考えてしまえない、ということではなかろうか。例えばこの「日本的性格」に日本の性格の本質として「中間的」であることと「簡素」であることと「謙抑」であることとが云われているが、現代の性格として私たちの日常は周囲にその文字どおりの気風を感じながら暮しているだろうか。簡素であるということは単純でもあり淡白でもあるということになるだろうが岡崎義恵氏の日本文学研究の中には、淡泊であることが「生命力の稀薄のあらわれ」と見られてもいる。単純なものが俄に複雑な事象に面してどのような混乱に陥り、性急に陥るか。性格は動くものだ。過去によってつくられているが、やはり生活の刻々のうちに未来に向ってつくりつつあるものであろう。
 日本的な性格の特徴を肯定するとき、それと対照的な性格の質を、説明なしでより望ましくないもののような語調で語ることも、文化を正しく把握する態度ではなかろうと思う。日本の女の服装は華やかさを内にひそめたものであり、外国の女はけばけばしい許りの原色を使うというような対比も、それをよむ日本の若い女性は、何となしはにかむだろうと思う。西洋の女の服装が、ただけばけばしいばかりのものでないことは、灰色の美しい扱いかた、黒の微妙な調和の手法を、日本の近代人はかえって西欧の洗煉された色感から学んでいることを、女性は知っているのである。「日本的性格」の筆者が、近代の日本人が、日本の美を発見するために、いつも先ず外国人の評価をさきにしてそれに追随して来た態度に注目しているのは、まことに興味あるところと思う。それを不甲斐ないとしているのも、至極もっともなことである。だけれども、残念なことに筆者はその現
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