象に注目して不甲斐なさを感じただけで、何故そのようなことがおこって来ているか、その文化的な原因まで追求していない。そのようなところにも、計らず日本の性格の中間的であり、簡素さが現われているのだろうか。明治以来の社会生活の急激な推移は、わるい形で外国崇拝を習慣づけているばかりでなく、日常の生活感情をも多面的に変化させている。過去の芸術上の美は、改めた目で見直され、改めて美しさのそれぞれの典型として歴史の中に評価され直さなければ、後代の生活感覚の中にそのまま共感され難いところがある。ところが、ブルーノ・タウトの「日本美の再発見」の桂の離宮の美しさの描写にしろ、外国人であるタウトはそれぞれの手づるによって国の美の宝石を夥しく見る機会を与えられたが、この国のものが果して何人、礼服着用とたやすくない紹介のいるその建造物の美に直接触れているだろうか。絵画についても、彫刻についても国文学上の原典についてもそれは云える。このことは、明かに自国の文化の評価に対して私たちの負うている一つの負の面である。それとともに自分たちの持っている文化の研究が従来はとかく主観的にそのものを構成している諸要素の内側からだけ語られたと思う。日本の美の一つの要素である省略の趣向は、どのような生活感情からのつながりとして現われているのかと外から見て行かず、それが日本人の直感的な性質であるからと結論で示されてゆく傾きがあった。しかし近代日本の精神は一般に、より科学的に高まっているから、やはりそこに分析と綜合の精神活動が求められ、それを通じて美をも一層豊富に感得したい欲望、即ち、世界の美感の中へつき出されて猶色|褪《あ》せぬ美としての美しさを感じたい欲望をもっていると思う。その心持が、外国人の優れた新鮮な感受性に映って整理され、美の認識として再構成された美の評価を好むということになって来ていたのだと思う。日本文化やその美が、日本の学問の対象としてもっと理性的に学問的に取扱われるようになって来れば、日本文化は遂に自身の評価者として自身の文化を持つようになって来るわけであろう。
 文化の価値について云われるとき、外国人は元よりのこと、多く完成されている古典を対象とする習慣も、その理由はうなずけるが私たちには或る物足りなさを感じさせる。云ってみれば、一定の文化水準にある者には、外国人に日本画の美しさがわかるように、日
前へ 次へ
全11ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング