目、駄目だわ」
すると、今度は美津子が、その答を書いて杉子に見せた。
低めた声で、けれども格別こそこそしているのでもない声が折々あっちこっちで聞えて、その時間は過ぎて、ベルと同時にてんでに答案の紙を教壇のテーブルの上に重ねた。当番がそれを一まとめにして教員室へ持って行った。
それは午後の一時間目のことであった。あと国史と最後の体育で、みんなが控室で着換えしているところへ当番の井上八重がおびえた蒼い眼をして入って来た。
「きょう体育は休課になりますって。そして、みなさん教室へ集って下さいって」
そこまで伝言の事務的な無表情さで大きい声で云って、急に声をおとすと、
「ちょっと、どうしましょう、大変なことになりそうよ。津本先生、涙浮かべていらしたわ」
と少女っぽく身をちぢめるようにした。津本は杉子たちの級担任で真面目なおとなしい国語専門の女教師である。
「あら。――わるいわねえ」
「わかったのかしら?」
互に見交す若い顔の一つ一つの上に動揺があった。杉子たちのそばのその一かたまりとは別に、奥の鏡のところでかたまっていた連中の中から、唇のあたりを亢《たかぶ》った正義感でつらしたような表情で比企《ひき》すげ子が叫ぶように云った。
「どういう場合にしろカンニングするなんて、冒涜だと思うわ。私ちゃんと云って行くのが義務だと思ったんです」
カンニング。――杉子の瑞々しい顔色も幾分褪せて、ぼんやりした深い困惑があらわれた。比企すげ子をかこんだ一かたまりとは別々に、杉子たちはぞろぞろ教室へ戻った。
すぐ津本先生が入って来た。しんとした教室には午後の青葉かげが愈々《いよいよ》濃くなりまさったようで、そこに若々しい罪のない困った表情をむき出しにしたどっさりの顔が、黙って教壇に向けられている。
その雰囲気の抵抗なさが、勢こんで来た津本先生の気持を次第に悲しさにかえたように見えた。暫く口をつぐんでいて、やがてしんから残念そうに、
「どうして、あなたがたはそんなことをして下すったんでしょうね」
心からのその声音は、まじり気のない遺憾の思いで悲痛にみんなの胸に迫った。だけれども、誰も黙っている。どうしてそんなことをしたか。あのぼーとなるような時間に、それが分ってしたというひとがあっただろうか。第一、カンニングといういやな名のつくそのことだと知って、あんなに云わばおおっぴらにクラスじゅうがその空気に感染したのだったろうか。杉子は喉のつまるような苦しさを感じた。自分の心をたずねて、机に突伏した沢田美津子の顔や、紙の端に書いたその時のことや、教わったときの気持を思いかえしてみても、そこに今それがわるいこととして示されているような罪悪感は一つもつかめなかった。かくれて教わったという実感さえなくて、自習時間の時のような感じがある。誰もいい点を採ろうとして教えっこしたりしたのではなかったと思える。何だか自然わからないことをきき合った。
比企たちはそういうことはせず、それをカンニングと見て、学校もそれはそのように見ている。
そう見ることがすぐに立派な態度だと思えない気持と、カンニングをよくない行為だと認める心との間に相剋があって、杉子は一種異様な苦痛を感じた。
「教えっこをした方は立って御覧なさい」
津本先生の声に応じて席に立ったのは、クラスの半数を超えた。出来ないひとばかりでなく、その中には首席の池田紀子もいる。立つものが当惑しながらも寧ろ悪びれず立っているのに、坐ったまま坐席にのこっている者たちは首を堅くして正面を見据えたり伏目になったりしていて、そのことで自分たちから恥辱を撥《は》ねかえそうとするような暗さを醸し出している。ふっくりした手先を机にふれさせながら立っている杉子の頭の中に、その時高く響くような調子で「いずれを義《ただし》とするや」という文句がはっきりきこえた。行為のきれいさ、きたなさとはどういうことを云うのだろう。
杉子のその疑問が別の声となって溢れたように、
「先生」と、立っている群の中から池田紀子がよびかけた。
「私たち、よくなかったと思いますけれど、決していやな動機でしたことではなかったと思います」
「それはそうでしょう。二年御一緒に勉強して来て、あなた方がそんな卑劣だとは私にとても思えません」
そのことで沈痛さは軽くされない語調で津本先生は、考え考え答えた。
「けれどもね、もし岡先生が教室にいらしても、あなたがたは同じことをなすったでしょうか。ようくそこのところを考えて下さい。――本当に、どうしてこんなことになったでしょう」
昏迷のまま、その日は定刻に皆帰った。翌朝学校へ出て、杉子はこの事件が未解決のまま心理的に一層複雑なものとなっているのを感じた。ほかのクラスへそのことが学校として前例ないこととしていつの間にかもう
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