いたって?」
「訊かなかった」
杉子は楽な横坐りで、母の手許を見ている。鑵を出して、丹念に煎餠をしまっている毬子は、
「そう、そう」
と、顔を鑵へ向けたなり、
「伊田さんが見えたよ」
「ふーん」
そういう返事が、母の云いようから誘い出された。やっぱり来たのだった。いつ頃来たのかしら。杉子は、自然につづく筈の母の話を待った。が、毬子はそれきり黙っている。杉子は、次第に焦立たしい心持がして来た。
「何か置いて行かなかったかしら」
「格別用もないらしかったよ」
また母はそれきりで黙っている。
不自然な苦しい気がこみあげて、杉子はそこに放り出してあった帛紗をとりあげ、端っこでふりまわしながら自分の部屋へ出て行った。
伊田が上って行ったのかどうか、そんな謂わば下らないことだって、母はほかのひとのことなら、自分で知らず識らず話す。そういうひとなのに、伊田のことについてはいつも特別口数少く、冷淡らしくした。
去年の秋、従姉の雪枝の新婚早々の誕生日の集りで杉子は初めて伊田に会った。雪枝の良人と同じ会社の後輩で、政経を出たのに劇に興味をもっていて、そういうグループをもっていた。雪枝は半分からかうような派手な口調で、
「杉ちゃんは、グレゴリー夫人みたいな仕事がしたいんですって」
と、紹介した。杉子は思わず赧くなって、
「いやだわ、そんな。私そんなこと云ったことないじゃないの」
むきに否定した。雪枝はグレゴリー夫人のことも日本のこともよく知らないからこそそんなことが軽々しく云えるのだ。杉子はそう思った。女で劇を書いて生活してゆくことさえ日本ではむずかしくて、杉子の学校の先輩の一人は、永年戯曲を書いていたのに、近頃思いがけないところで通俗小説をのせているのを見た。
その晩、却ってそんな話をさけて、スポーツマンである雪枝の夫の好みらしい学生っぽい陽気な大騒ぎをして遊んだ。
伊田も気取らない気質で、大豆を奪い合う「豚」という遊びの時なんか「おい、駄目だ駄目だ、ひどいよ」と、どら声をあげて、雪枝の夫にくみついたりした。
伊田のグループに杉子が加ったのはそれから二月ほどあとのことであった。
芝居好きということでは、母の毬子もまたその母親からうけついだ趣味をもっていて、弁護士であった杉子たちの父が十年ほど前に亡くなってからは、毬子は娘たちなんか誘って、地味にしかし自由にいろんな芝居を観ていた。築地の小劇場へもよく出かけた。英語に力を入れた外国人経営の女学校を出ている毬子の若い時代の気風が、歌舞伎通にするよりは、思い出話にも松井須磨子のことを語らせた。
伊田が、そういう毬子の話に生きた歴史の一頁の面白さを感じるのは杉子によく理解されたし、自分としてはただ見聞として思い出の下にしまわれていた話が、伊田の知識でおぎなわれて、毬子自身に新しい意味で味わいかえされるらしい楽しさも、杉子には優しい共感で思いやることが出来た。だから、何にもこだわらずに皆で愉快にすればいいのに。
机の上に飾られているフリジアの花に髪が触れるほど顔を近づけて、つよいその匂を吸いながら、杉子は涙ぐみたいような気になった。
母がそれとなし警戒しているようなことは杉子とすればまるでいらないことに思えた。自分から率直に興味を示したりすると、娘の伊田への関心が度をこしたものになりはしまいかとでも思っているのだろうか。
その学期が終ろうとする頃、杉子のクラスで一つ妙な事件がもちあがった。英文学史の臨時試験の日に、その学課をうけもっている教師が欠席して、文法のひとが問題を黒板に書きつけ、ほんの形式的に暫くその辺にぶらぶらしていてから、引きあげて行ってしまった。
五月の気圧の低い曇った午後であった。雲母《きらら》を張りつめたような底光った空の下に花がすんだ木蓮の濃い若葉、年経た百合の樹の枝々を覆うように茂った若葉、重なりあった楓の青葉など、あたりの新緑は深くてこっそりと油絵の具の重さと感覚を校庭から教室の窓辺まで漲らせている。
始りは神妙に黒板と机の上の紙との間へ視線をかぎっていた学生たちの気分が、教師のいない初夏の教室のいくらか頭の痺れるような空気の中で、いつの間にか何処からともなくそよぎはじめた。
問題の中に一つ年号があって、杉子はそれが思い出せなかった。火照る頬っぺたへ手の甲をあてて、下がきの紙へ考えながら麻の葉つなぎを描いていると、となりの席の沢田美津子が一人ずつ向っている机の上へ突伏すようにした顔を杉子の方へ向け、
「ああ悲観しちゃった」
まわりの二三人にはきこえる声で溜息した。
「ねえ、仇役の騎士は何て云った?」
杉子はいたずら書をしていた紙の端にアーサ王物語の中の一人の騎士の名を書いて、それを美津子の方へ向けてやった。それに誘われて何心なく、
「私は三番
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