つたわっている。こちらから近づいてゆけばすーと遠のいて行くような、しかも好奇と恐れの交りあった眼ざしが到るところに感ぜられた。
「何て憂鬱なんでしょう」
 躯を切なくよじるような表情で沢田美津子が訴えた。
「何もかも、詰んないようだわ」
 眠りにくい夜を過した杉子は沈んだ顔つきでただ腐っている美津子の顔をじっと瞶《みつ》めた。クラスのなかは今朝になってすっかり二つにわれてしまった。
「なんにもあんな眼して私たち見られることはないと思うわ。クラスの名誉を云うんなら、あのとき、みんなそんなこと止めましょうよって一言云えばいいじゃないの。それが名誉を知った態度だろうと思うわ。皆には黙っていて、かげで云って行くなんて……」
 美津子は、
「ねえ」と、体で杉子を押すようにした。
「黙ってないで、よ。そう思わない?」
 押しつけられるままになって杉子はなお口をきけなかった。
 その日は英文学史の受持の岡が、いかにも病気中らしい和服姿で出て来た。そして、
「僕としては今度のことをあまり重大に考えようと思わない」
と云った。
「罪悪という風に思わないでいいんだろうと思う。しかし……」
 暫く考えこんでいて、
「諸君は、この点をどう考えるかな。とにかく或る行動がされて、その結果が諸君の上へかえって来ているとき、その行動の動機がはっきり自分につかめていないというと――つまり、負わされる責任だけあって負う責任が自分に分っていないというような生活態度を、若い女性としてどう考えるだろう。今度のことにしたって、何かそこに反抗でもあってされたというのだったら、却ってさばさばしたんだと思う。動機らしい動機がない、そのことが寧ろ問題だろうと思う」
 岡は、
「いずれ津本先生からもいろいろお話があったんだろうし、僕はその点をよく諸君めいめいで考えもし、話し合いもして、わかったら、もうこんなことは忘れた方が結構だと忠告したいね」
 そう云って、ふっと苦笑の翳《かげ》を口辺に泛べた。そして、独言のようにつけ足した。
「もっともあまりかたまって議論していれば、それがまたいけないことになるんだろうが……」
 学校では、学生が文学研究のためのグループをこしらえることもとめているのであった。
 追試験をしなおすこと、今度だけは処分というようなことはしないこと、教えっこをした学生で、クラス委員になっているものは委員をゆずること。その日のうちにそれだけが決定された。
 次の日の昼休に、全校の学生が講堂に集められて、校長から特別な訓話があった。
 表面的に事件のしめくくりはつけられたが、クラスの気分の動揺は永く尾をひいて、現在の学生生活の当途《あてど》のないつまらなさやそれぞれに落着かない青春の可憐な摸索やらが、みんな今度の事件に絡みあった後味となって影響をのこした。
「ね、杉子さん。私こんどつくづく自分て下らないんだと思っちゃったの」
 校舎の裏の小高い丘の石の上へかけながら紀子が歎息して云った。
「岡先生のおっしゃったこと本当ね。少くとも私なんかは自分で自分の行動に責任なんか負えない人間なんだわ。だからね、もうこれから新体制にしちゃうことにしたの。大人の戒律に従順にしているのが分相応なんだと思うの」

 杉子は、優しい沈んだ様子で、どこか柔かい仔猫[#「猫」は底本では「描」と誤植]のような身のこなしで、隣の籐椅子の上から母の毬子の肩のところへ顔をもたせかけていた。毬子は満足そうに、おだやかに新聞を見ている。この昔の正直な女学生のまま年をとったようなところのある母が今度の事件を知ったら、どんなにびっくりするだろう。試験のとき教えっこしたりするのはわるいこと、だから決してしてはならないこと。結婚する迄好きなことを勉強するのは悪いことでないけれど、結婚したらいつとなしにそんなことも忘れてしまって一生暮して不思議とも考えないこと。それらは何の疑いもなく、この小皺のたたまれた一応は賢い額の奥に伝統の場所を得て納められているのだ。
「ねえ、かあさん」
 杉子は、そーっと母の顎のあたりを撫でながら、あらわし尽せない感慨をこめて云った。
「ねえ、かあさんは、きっとずいぶんハイカラな女学生だったんでしょうねえ」
 毬子は、
「ふ、ふ」
と笑った。
「西洋人の先生何て呼んだの、マリって云った? それともメアリって云った?」
「そりゃ、ミス・セタって呼んだのさ」
 この母が、杉子の今心に思っていることをすっかり知ったら何と云うだろう。
 今度の事件から、杉子は紀子のように自分に絶望した考えかたをひき出して来ていなかった。一層身にひきしめて、生きてゆく目標をもつということの大切さをさとった。学校がつまらないということでは皆始終云っていることだけれど、それならば次の日から行くのをやめるかと云えば、そん
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