なはっきりしたところはなくて、やっぱり通っている。これから通うからには、そこで知ることの出来ることだけは、確に自分のものとして感ぜられるようにやって行こう。そして、戯曲の勉強を本気にやるのだ。本気にやるということは、つまり結婚すればあきらめるという、そういうこととしてではなく、結婚のこともそれに応じたこととして考えるという方向でやって行くのだ。こうやって暖く少し重くおとなしく母の肩にもたれかかっている自分の精神の裡に、音も立てず飛躍が行われていることを感じて、杉子は不思議な心持がした。こんなにぴったりくっついていて、こんなに心が親愛にみたされていて、それで母でない自分の一生というものは自分だけにしかないという事実は、何と不思議だろう。
丁度次の土曜日が伊田のグループの集りの日にあたった。
杉子は新しい積極な気持で、その集りに出た。相変らず言葉すくなくそこに加っていることは同じ心でも、今の杉子はそこにある雰囲気よりもそこで本当に語られることは何かということを理解したいと思うのであった。
伊田が近代劇の発生の歴史について書いたものを読んだ。
五時ごろ解散になって、杉子と伊田は神田で本屋をやっている仲間の家から、聖橋へ向ってぶらぶら歩いていた。さっぱりとした西風に吹かれて夕焼雲がしずかに漂っている初夏らしい夕方であった。ニコライのドームの古びた白堊の壁に遠い空からの夕映えが微に映っているような広い改正道路の風景には、そこを歩いている杉子自身を小さい点景の人物のように思わせる面白さがあった。
濃緑のネクタイを風にふかせていく伊田と並んで赤い書物入の鞄を振るようにして快活に歩いていた杉子は、後から来た靴音で何心なく歩道の内側へよけようとした。するとその靴音はそのまま追いぬいて行かず何となしわざとらしさで二三歩|跟《つ》いて来たと思うと誰かが杉子の右肩にちょっと触れた。
防衛するようにその肩を捩ろうとしたとき、
「杉ちゃん」
ひょいと出た顔を振仰ぐと、杉子は覚えず、
「まあ」
と声を出した。
「びっくりしたね。どうも杉子さんらしいと思ったが、当ったね」
それは母の兄、杉子には伯父の兼吉であった。八分どおり白い髭を動かして薄笑いしながら、
「妙なところで会うこともあるもんだね」
そして、伴立っている伊田は全然無視した視線を見下すように杉子にだけ注いで、
「若い娘
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