んしながら手を振って笑う照子を自分の膝へ、自分でも気付かないようなすらりとしたうけとりかたをした。峯子はそうやって抱きとってから、隠微に動いた自分の母親の感情におどろいたのであったが、琴子はそんなことに心づかない風で、すこしずれた着物の上前を直し、さっきからそこに出ていた茶をひえたままのんだ。
「あら、御免なさいね」
「いいのよ、いいのよ、うちでもよくつめたくしておいてのむのよ」
慎一などとちがって、山崎は父親の縁故から派手な生命保険に勤務していて、昼の休みは二時頃迄麻雀倶楽部で時間をつぶして来るという方なのであった。
「御無事でおかえりになって、って祝って下さるけれど、やっぱりああいう殺伐な思いをして来たっていうことはちがうわ。ね、峯子さん、この間二人して伺ったとき気がおつきにならなかった? 山崎はどっかちがってしまったのよ、何ていうんでしょう、こう……ひとくちに云えないわ」
琴子はもどかしそうに居ずまいを直した。それは、峯子もあとから慎一と話したことであった。きっと山崎さん、大変自分では大人になったっていう気なのね、そう云ったのであった。細君が何か云ったりするのに対して、さも生きて来た世界がちがっているという風に無視したり、或は黙って笑っている。その笑いのなかにおとなしくない何かが滲《にじ》み出して感じられたのであった。
「あら、もうこんな時間! こんな愚痴云ったりして、山崎に分ったらまた叱られるわ」
はたからの言葉で解決しようのないままに琴子をバスまで送って行って、峯子は市場へまわった。この市場では時間をきめて玉子を一人に百匁まで売っているのである。飼料の価格をきめないで、玉子の方だけ値をきめたから出っこないですよ、そんな話を売子の男がした。
慎一は、今晩は勤め先の会議でおそくなる。
「さあ照ちゃん、今晩はさし向いよ、凄いわねえ」
そんなことを云いながら、さみしいような賑やかなような夕飯を早くすませ、照子をねかしつけてから、峯子は、とりかかっている少年小説の翻訳のつづきをもち出した。今のは二つめの仕事で、初めのは本になっていた。一昨年の夏補充がどんどん出て、慎一も身仕度の用意をはじめた。丁度その時分、社から一年ちがいで出征する人があった。送別会から珍しく赤い顔をしてかえって来た慎一は、濡れ手拭で背中をゴシゴシ拭きながら亢奮ののこっている口調で、
「鈴木の奴、よっぽど気がかりなんだな、くりかえし細君のことをたのんで行ったよ。月給もきっと細君の方へ送ってやって呉れって。細君てひとは孤児なんだって」
鈴木の親はその結婚を認めていないので、身よりのない若い妻をたった一人ぼっちで東京において置けない気がするのであろう。往きに岡山とかの親戚へあずけて行くと云って、同じ汽車で立って行った。
「小っちゃな子供みたいに雀斑《そばかす》のある顔して、そのひとは、誰にもかれにもお辞儀ばっかりしていた」
気持よく糊のついた浴衣《ゆかた》にきかえて、大きく脚をけるように動かして兵児帯《へこおび》を巻きつけ終ると、慎一は、
「どうだい、峯子」
そこに立って着換えを手つだっていた峯子の肩に手をかけて、自分の方にその顔を向かせた。そして、半ばは冗談、半ばは本気という表情で、凝《じ》っと若々しい正直な妻の眼を見ながら、
「この俺だって死ぬかもしれないんだよ、大事にしてお呉れ」
と云った。すると、これをきいた峯子の顔がさあっと上気した。
「ああそんなこと」
慎一の片っ方の手をつかまえて、我にもなく自分の胸へしっかりおしつけながら、
「とうに分っていることじゃないの、何故……」
殆ど憤ったような二つの眼で慎一を見詰めたが、その眼にやがて涙が溢れて、
「そうね、あなたはまるで御存じないのね、ね、そうね」
と微笑みながら云った。その思い入った優しさに迸《ほとばし》るものがあって慎一を深く動かした。その時のことを後から思い出す毎に、慎一は、少くともあの時自分の気分には、妻よりも軽薄なものがあった。実際慎一はそのときまで、夜なか、そんなに度々、そして永い間、妻が目を醒していることがあったなどとは思いもかけていなかった。
白い蚊帳《かや》を一杯に吊ると、二階の部屋はそのまま一つの半ば透きとおる籠のような感じになった。どこからも足場のない例の西側は開けたきりで、そこから蚊帳の裾へぼんやり樹のかげを落したなり、彼等は寝に就いた。一緒に溶け込むような深い眠りに入って、いくときか経つと、ふっと峯子は目を醒した。いきなり眠りのそこから真直に、はっきりと目が醒めた。あたりの夜気は冷えて白い蚊帳も露っぽく重くなって来ている。その裾の方に西へまわった月の影がさしている。殆どものをかけないで眠ってしまっている慎一が冷えはしまいかと、手をのばして、偶然健やかな寝息を立てている良人の胸のあたりにその手が触れたとき、峯子は遠方に聴えるのではあるが極めて耳につく音響に注意をひかれた。その音は、遠い代々木練兵場の方からきこえて来た。シュルン、シュルン。いかにもつよい近代武器の鋼鉄バネが当ったらあやまたず命につきささる鋭い決然とした弾丸をはじき出すような音である。慎一の胸にかるく手をかけたままきき入っていた峯子は、その鋭い音と慎一の体の温さや鼓動がだんだん一本の線の上につながれて感じられて来た。きいていればいるほどシュルン、シュルンというその恐ろしい深夜の音は、自分たちのいのちにかかわりのあるものとしか思えなくなって来た。峯子はいつか上半身をのり出して、ねむりこんでいる慎一の胸を自分の胸でかばうような姿になった。そして、きき耳をたてた。音は小一時間もつづいたように思えた。そして、やんだ。
その頃東京という大都市の周辺では、夜じゅういろいろな音がした。眠らない人がいた。そして、夜間にする物音は、昼間では全くきくことのない音であった。夜中眠らずに何かやっている軍人たちも昼間は、誰がその眠らない人だったのか、見分けることは出来ないのであった。
朝になって、出窓にかけて新聞をひろげている慎一の姿を眺め、峯子は夜なかに、空気を截《き》って耳につたわって来た音をきいて、あれ程のせつない気がしたというのが、不思議に思えた。それに、何と云って話していいか分らないような心の経験でもある。
格別拘泥しているつもりでもなかったのに次の晩も峯子は同じようにして目が醒め、醒めて見るとそれは夜なかで、そしてその音がしているのであった。同じように峯子は切なかった。しかし、その感情が非常にせつないだけ、益々その時慎一をおこす気はおこらなくて、彼女は一心こめた思いで眠りのために芳しく重い良人の体を抱くのであった。
幾晩それがつづいたろう。或る晩、ふっと眼がさめて、習慣から峯子は敏感に枕から頭を離すようにして耳を聳《そばだ》てた。暗い夜がどこまでもこめているばかりで、その闇を劈《つんざ》く例の音はなかった。待ち心地できいていたが、その音は確にもうしなかった。そうすると、涙が出て来て、涙が出て来てたまらず、峯子は床の上に坐って、自分で自分をいぶかるように少し頭をかしげて涙に濡れていたが、やがて椿模様の寝間着の袂で涙をふくと、その唇を良人に近づけた。慎一は、少年ぽくむにゃむにゃという夢中の表情でこたえた。それも峯子にはおかしくて嬉しかった。峯子はひとりで笑った。
だが、その幾晩かの思いは峯子にいろいろのことを深く考えさせる動機となった。切なさは忘られず、そこから峯子は自分たちの夫婦としての生活をあらゆる面から遺憾ない日々のうちに生きようと一層本気になった。感覚的にも精神的にも峯子はこの期間に著しく成長して、容貌にも深い艶が加わったように見えた。
翻訳の仕事をはじめたのもこの頃からであった。いい加減におくっているのでなくても自分たちの生活がただ一日一日と消えてゆくだけでは、何となく峯子にとって物足りず、互の生活からもたらされてそこにはっきり現れて来るものを求める心が、翻訳となった。照子がおなかに出来たとき、生れて来る子供をひっくるめて自分たちの生きるべき時代の現実をつめてゆくと、子供のなかに天をも地をも畳みこんで、それを覗いているばかりのような女の暮しは、不安でたまらなかった。慎一が家にいられなくなった場合を考えるとなおさらその心持はつよめられた。峯子としては、良人も自分も子も、みんなしてめぐり遭わねばならない現代の運命のすべてを担ってやって行ける幅のある力を自身に求め、それを確かめておきたい心持がつよいのであった。
一区切りまで仕事をすると、階下へ降りて、鉄瓶にさわって見てから峯子は小膳立てをした。勤め先の会議から帰って来ると慎一はきまって、茶漬食えるかい、ときくのであった。
四
日曜日のひる近くで、近所の中学生が杉垣の外でキャッチボールをしている音がきこえる。慎一は照子を抱くというより腹と膝との上にのせているという恰好で、小庭においたカンバス椅子に出ていた。風情もない庭だが、夏のはじめ頃彼等が散歩に出た時掘って来た萩がついて、四つ目垣のところで紫の小粒な花を開きかけている。
「峯子、萩のわきに、何か穂を出しかけているものがあるの、知っているかい」
峯子は、庭からも見通しのきく小さな台所の流し元で、
「萩より傑作なくらいね、何なのかしら」
シャベルで根をおこしたとき、一緒に根をつけて来たらしい野草が、芒《すすき》に似た細葉をのばして、銀茶っぽい粒々だった穂を見せはじめているのであった。
「ああそこにあった手紙御覧になって?」
「知らないよ」
「『電電』の下にあるのに」
照子に何か云っている声がしずまって、その手紙をよんでいる風であったが、やがて、
「おい、ちょっと来ないか」
顔はまだ手紙の方に向けられている慎一の呼び声がした。
「すぐ」
「――来て御覧」
「何なの」
出された手紙に目を通すと、峯子は腑におちない表情になって、
「ふーむ」
と慎一の顔を見た。
「何だか変な気がするわ。今どき、家なんて本当に建つの?」
「沢田の兄貴の地面がつかえて、建築家の沢田が建つと云うんだから、建つんだろう」
「だって――集合住宅なんでしょう? 小さいもんでもないのに。五十円ずつ十年の年賦にしたって……」
これから先の十年という年月の間、現在と同じ生活条件を動かないものときめてそんな計画を立てた発起人たちの生活への心ぐみも、峯子のこの頃の実感にはぴったりしなかった。峯子はあしたにも変らせられなければならない自分たちの生活を考えて、寧ろそのためにこそ用意するこころもちで暮しているのに。そして、それは今の日本の幾万組かの若い夫婦の生活感情でもあると思えた。
「沢田も息子をもったりしたら、きっとこういう考えにもなったんだろう」
スカートで素足へ草履をはいた峯子は、カンバス椅子の背に手をおいて、暫く黙っていたが、
「ね、私、つむじ曲りなのかしら」
ゆっくりまわって来て、慎一の前のところへ跼み、腕木へ自分の柔かい顎をもたせるようにして良人の膝にいる照子に自分の小指を握らせた。
「こういう方たちの気分とはちがうわ。照子のこと思ったって、やっぱり違うところがあるわ。可愛くたってもよ」
「どうせお互に家賃を出しているくらいなら、ばからしいから自分のものを建てようと云うだけの考え方なんだよ。……しかし、ここは何しろ二十四円だからな」
と慎一は笑った。経済的な点ばかりでなく、そこに住む一団の家庭の所謂文化的で品のよいという雰囲気に肌が合わない夫婦が、その年賦の住宅建築に加わる気のないことは、改めて言葉に出さない夫婦独特のわかり合いで峯子にもわかっているのであったが、この話がもし二三年前に出たのだったら、と峯子は、短い間にはげしくかわって来ている自分たちの感情が顧みられた。
こうやってカンバス椅子の腕木にふっくりした顎をのせ、照子の手の中に握らせた小指を振って娘をあやし、自然の笑顔になっている妻の感情が慎一にはよくわかるように思えた。勝気だとか何とかいうのとは全く別な気持ちから、峯子
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