草じゃないんだ」
飯島はちょっと肩をすくめるようにして笑って、
「僕のやるのは貝柱の方だ」
ヨーロッパ大戦でもはじまればそれこそ大したものだが、そうでなくって中国へ出すだけでも北海道の貝柱は足りないくらいだ。
「支那人は皆あれを料理につかうんだからね。――どうだい、出資しないか」
「本当に、そんなにみんなが食うのかい?」
戸山が、にやつきながら飯島の顔を見た。
「俺は『大地』って映画をみたが、そんなものを食っちゃいなかったぜ」
「君は駄目だよ、毒舌を弄するばかりで福運のない男だよ、この前わざわざ手紙であんなに金を買っとけと云ってよこしたのに、何もしなかったじゃないか」
むきな調子で戸山をそうきめつけておいて、飯島は、黙ってきいている慎一に向い、
「貝柱っていったって、白い綺麗な菓子みたいに乾したものでね、このくらいの」
と手で箱の大きさを示して見せた。
「箱入りで、臭くもなんともありゃしないんだ。二三年は平気でもつもんだ」
貝柱が白くて綺麗で菓子みたいであることを、飯島はひどく熱心にのべた。
そんなに白くて小さくて綺麗な貝柱の類で、巨万の富をつめるという想像が、山林とか鉱山とかいう対象とはちがった魅力の刺戟であるらしかった。現に土地の有数な実業家の一人がそれで資産をこしらえた。
「運輸会社の重役でね、そんなところの重役ぐらいしていたとこでそんな資産の出来っこがないんだ。よほど前のことだが或る機会にずばり訊いたらね、いや実は貝柱の内職があるんだってわけさ。それで思い付いたんだ」
「買いしめるわけか」
「そうさ」
テーブルの上で、飯島はポンポン煙草をたたきながら、
「丁度やりかかろうとしたとき、急にこっちへ来ることになってしまったが……今度はやるよ」
「そんな元手がいつ出来たのかね」
口の重い志保田が、変にばつのわるいような生真面目な顔つきで質問すると、
「銀行からかりるさ!」
その度胸がなくて、という風な答えかたで、銀行利子とその貝柱がこの半年の間に騰貴した率とを比べたりして、飯島はビールのせいよりも自分の話題で紅潮した顔を、友人の一人一人に向けて話した。
「いくらくらいかりるんだ」
「銀行が貸すだけ借りるつもりだ」
それをきくと同時に、志保田は椅子の上で居ずまいを直すように体を動かし、伏目のまま煙を吐きながら、そこに出ている灰皿の底へきつくバットの先をにじりつけた。心に受けた衝動や否定的な不安やらが、いかにも表情的にその無言の動作のうちに語られている。慎一の心には切実にそれが触れた。志保田の親父は大正九年の暴落のとき米問屋の家を潰してしまっているのであった。
この前のヨーロッパ大戦の時代と現在とでは世界の事情が全くちがって来ている事実を、いくらか専門の立場で云う慎一の言葉を、飯島は腕組みして、懐疑的な表情を露骨にあらわしてきいていたが、
「そりゃ小柳は昔から学究さ」
不機嫌な調子で反駁した。
「けれども、例えば統計なんてものにしろ、いつだって現実を数歩おくれてついて来ているんだ。しかも昨今、統計というに足るものが果してあるかね。商売人はどんなことをしたって儲けようとしているんだからね。しかも儲け口たるや、本に書いてないところにしかありっこない。これは公理だよ」
戸田はどこまでも傍観的な態度で、
「先ず函館じゅうよく調べて、湿《し》っけない倉庫を手に入れることだね。三年経ってさていよいよという段になってみたら、折角その白くて綺麗だった貝柱が、青かびだらけというのじゃ、ぶちこわしだからね」
白くて綺麗というところを、何となし語られているのが女ででもあるかのような調子で云う戸田の声の響にも、既に一座の空気に瀰漫《びまん》している飯島の亢奮がうつっていて、微かに神経質な甲高さが加わっているのである。
慎一は、何だか顔じゅうがごみっぽくなって来る感じがした。
「僕も福運はあまりなさそうだから、謹んで君の大望成就を祈るがね、しかし――変だなあ」
いかにも怪訝そうに、
「そこがサラリーマン根性と云うかもしれないが、何かい、君なんか、例えば貝柱に関して、そんな企業上の大先輩が同じ土地にいて、君が思い当る迄すてておいたと確信出来るのかい」
今度は慎一がそう云うのにも黙って、ただ分厚な体でそれに対抗するような様子を示していた飯島は、やや暫く沈黙していたが、やがて思いきり伸びをするように上体をそらして、テーブルの下へぐっと両脚をのばした。
「しかし、何んだなあ、子供のことを考えるとあまり無茶も出来んしなあ」
聴き手の気持には唐突に、云い出した。
「何しろ年子で三人だぜ。ここんなかじゃあ僕が横綱だろう。親父の酔狂でまさか子供を路頭に迷わせも出来ないしね」
すると戸田が、
「おい、おい」
まんざら揶揄《やゆ》ばかりでもないような太い声を出して咎《とが》めた。
「どっちなんだよ一体。大いに煽られたいのか、なだめて貰いたいのか、はっきりしろ、人さわがせな」
みんながどっと笑った。飯島もにやつきながら、それでもその話は決して断念し切れない様子で、赤と白との縞の日覆が半分ひろげられている大きい窓ガラスの方へ視線をやりながら、その眼をしばたたいているのであった。テーブルを立ったとき、戸田はモザイックの床の上で靴をパタパタやりながら、
「壮言はビールの泡とともに、か。とんだ飯島のアルトハイデルベルヒだよ」
都会人らしく疳《かん》をたてて云った。
河岸っぷちの歩道を一人で帰って来ながら、今までその場にあった雰囲気を思いかえすと、慎一は、やっぱりそこに、いかにも今日らしい神経の動きを見るのであった。みんな傍観的態度を保っていながら、その一面では飯島の亢奮につよい疑問の形で捲きこまれているのであった。
そして最後に飯島が沮喪《そそう》したようなことを云い出して、動揺している、その動揺をちゃんと感じとるものがめいめいの心にも用意されていた。
慎一の身辺には、飯島の話のような、どちらかと云えば至極単純な罪のない夢より、もっと複雑な例もあって、この一二年そういう特別の動きかたをした者の現在りゅう[#「りゅう」に傍点]とした姿には、世相の迂曲した大路小路がそのままにうつっているのである。実際そういう変りかたをした例もすくなくない。あの男もこの頃は云々と、も[#「も」に傍点]ということに第三者の心持をこめて語られているのが通例であるが、慎一自身、そういう変転の姿に社会的な感情として羨望を感じないとおり、羨望という言葉で云われれば居据りの組の何万、何十万という人々の大部分も恐らく羨望は感じていないにちがいない。そういう部類の人間と自分たちの生活との間にある距離は偶然のものではなくて、人間としての肌合いの相違として、これまで経て来た生きかたの相違の全部をこめたものとして、意識、無意識のうちに理解されている。
けれども、そういう比較なんかは一切ぬきで、自分というものを自分だけで感じるとき、そこには何か別の感じがある時がある。瞬間の暈《くるめ》くような激しさで、自分というものが橋桁で、下に急な流れをみおろしてでもいるような、止めどなく洗われている感覚に襲われることがある。みんな、と云っても我知らず慎一は自分と似た年齢の三十から三十五六という人々の生活を念頭におくわけだが、みんなこれらの人々は、どんな独りの心持を胸にもちながら、この朝夕をくらしているだろうか。
往復の省線のなかなどで、割合にすまして新聞などをひろげている人の顔に折々つよい興味を感じ、そこは微妙な以心伝心で、その人達の生活の心が、あながち新聞の紙面の縦横の寸法だけに、はまり切っているものでもないことを共感するのであった。
東洋経済というところは、経済的な意味では大してよくないところであった。しかし、慎一がそこへ就職したのには仕事の性質上の興味があった。同じ語学にしても、それが世界の刻々の動向と結びついて役立てられる。このことが慎一の気にかなった。月給で足りないところは、文筆上の内職めいた収入で補って、一人の知識人として謂わば筋のとおった貧乏をして、自分たちの境遇を持って来た。ところが、近頃は、或る瞬間足もとを急流が走っているような感覚に襲われると同時に、はっきりした理由はないが、何となしにこれまでのように安心して、筋のとおった貧乏をやってゆき難い時が迫っているような気のすることがある。しかしながら、その感じにしろ現実には複雑で、異様な瞬間の感じのなかに、やっぱり自分の足の平はしっかり水底を踏んで動いている感じは変らないし、洗われている感じにしろ、それは向う脛《ずね》のあたり、という自覚が伴っている。
そのような生活感情が不安と呼ばれるなら、慎一は自分のその不安ぐるみ、そういうものを発生させている今の時代を、歴史のうつりゆく興味ふかい世相として見る心持も強くある。ひどいにはひどいが、面白くもある。そう思って生きている自分の心理も今日というものをこしらえている日本の一つの要素としてみるのであった。
三
実直な大工の老夫婦が大家であるその家は、小さいなりに階子段《はしごだん》の工合などもよく出来ていて、すまい心地はわるくなかった。特に峯子の気に入っているのは、二階の六畳の座敷についている一間の窓である。人通りのあまりない、杉垣の並んだ往来と門内の小庭に面した南向に、ありふれた一間の出窓があって、別にもう一間西側があいていた。そこは鴨居から敷居までずっとあいていて、白い障子に欅の影が映ったりする時、部屋の趣が深められた。外にゆったりした幅の手摺《てすり》があって、それは程いい露台であった。
「お揃いで、すってんどう、なんていうのは御免だぜ」
引越して来た当座、外まわりからしらべた揚句、夏などは二人ともそこへ出て夜風にふかれながら、この三年の間には随分いろいろな夜を過した。
「あら、あの高い燈。消防でしょう? 見えるんじゃないかしら」
「こっちの燈が消してあるよ」
そしてまた二人は子供をもってからも峯子の職業をつづけてゆくかどうかという相談をつづけたりした。専門学校を出てから結婚しても、峯子は、或る雑誌社へつとめていたのであった。
二階を下りたところの四畳半で、峯子がホワイト・シャツのアイロンかけをやっていた。縁側よりに、同級だった琴子が照子をこっち向きに抱えて、その手元を眺めていた。
「この頃はやりの生めよ、ふやせよもいいけれど、私たちのところなんか、いろいろ影響が微妙で……ねえ」
一年半ばかり中支へ行っていた山崎は還って来てから、夫婦の間に子供のないのを頻りに苦にしはじめた。そして琴子を医者へやったり、注射させたりしているのだそうであった。
「山崎がそういう心持になったのは無理もないと思うのよ。だけれど、私がわるいばっかりでもないのに……困るわねえ」
「どうなの、この頃もやっぱり、もてるの?」
「還って来た当座みたいじゃなくなったらしいわ」
琴子は苦しいような片頬笑いで、
「でもね、山崎はああいう人のいいところがあるでしょう? だから私、どんなことがあったって、自分たちに出来た子供でなけりゃ育てるのいやだって、それだけは、もう、はっきり云ってあるの」
いくら云ってあったにしろ、それで安心というわけのものでないことは、きいている峯子にわかるより、もっとひしひしと琴子の胸に抉りつけられていることであろう。この友達の妻としての苦しみや不安が、様々の形をもって考えられた。そして、こんな一般的な夫婦の間のことにさえも、やはり時代の色はさしこんでいる。それを、峯子は同情した。
琴子は、熱っぽい調子で、
「照子ちゃん、照子ちゃん」
と、名を呼びながら、柔かないい匂いのする幼な児の髪の毛ごしに、照子の丸い頬っぺたへ自分の紅の濃い顔をさしよせた。
「照子ちゃん、あんたどうしてこの小母ちゃんのところへ生れて来てくれなかったのよ」
「それだけは仕方がないわ、ね照子、そうでしょう?」
それと一緒にひとりでに両手がのびて、こっち向きにつくんつく
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