にゃむにゃという夢中の表情でこたえた。それも峯子にはおかしくて嬉しかった。峯子はひとりで笑った。
 だが、その幾晩かの思いは峯子にいろいろのことを深く考えさせる動機となった。切なさは忘られず、そこから峯子は自分たちの夫婦としての生活をあらゆる面から遺憾ない日々のうちに生きようと一層本気になった。感覚的にも精神的にも峯子はこの期間に著しく成長して、容貌にも深い艶が加わったように見えた。
 翻訳の仕事をはじめたのもこの頃からであった。いい加減におくっているのでなくても自分たちの生活がただ一日一日と消えてゆくだけでは、何となく峯子にとって物足りず、互の生活からもたらされてそこにはっきり現れて来るものを求める心が、翻訳となった。照子がおなかに出来たとき、生れて来る子供をひっくるめて自分たちの生きるべき時代の現実をつめてゆくと、子供のなかに天をも地をも畳みこんで、それを覗いているばかりのような女の暮しは、不安でたまらなかった。慎一が家にいられなくなった場合を考えるとなおさらその心持はつよめられた。峯子としては、良人も自分も子も、みんなしてめぐり遭わねばならない現代の運命のすべてを担ってやって行け
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