の先をにじりつけた。心に受けた衝動や否定的な不安やらが、いかにも表情的にその無言の動作のうちに語られている。慎一の心には切実にそれが触れた。志保田の親父は大正九年の暴落のとき米問屋の家を潰してしまっているのであった。
この前のヨーロッパ大戦の時代と現在とでは世界の事情が全くちがって来ている事実を、いくらか専門の立場で云う慎一の言葉を、飯島は腕組みして、懐疑的な表情を露骨にあらわしてきいていたが、
「そりゃ小柳は昔から学究さ」
不機嫌な調子で反駁した。
「けれども、例えば統計なんてものにしろ、いつだって現実を数歩おくれてついて来ているんだ。しかも昨今、統計というに足るものが果してあるかね。商売人はどんなことをしたって儲けようとしているんだからね。しかも儲け口たるや、本に書いてないところにしかありっこない。これは公理だよ」
戸田はどこまでも傍観的な態度で、
「先ず函館じゅうよく調べて、湿《し》っけない倉庫を手に入れることだね。三年経ってさていよいよという段になってみたら、折角その白くて綺麗だった貝柱が、青かびだらけというのじゃ、ぶちこわしだからね」
白くて綺麗というところを、何となし語られているのが女ででもあるかのような調子で云う戸田の声の響にも、既に一座の空気に瀰漫《びまん》している飯島の亢奮がうつっていて、微かに神経質な甲高さが加わっているのである。
慎一は、何だか顔じゅうがごみっぽくなって来る感じがした。
「僕も福運はあまりなさそうだから、謹んで君の大望成就を祈るがね、しかし――変だなあ」
いかにも怪訝そうに、
「そこがサラリーマン根性と云うかもしれないが、何かい、君なんか、例えば貝柱に関して、そんな企業上の大先輩が同じ土地にいて、君が思い当る迄すてておいたと確信出来るのかい」
今度は慎一がそう云うのにも黙って、ただ分厚な体でそれに対抗するような様子を示していた飯島は、やや暫く沈黙していたが、やがて思いきり伸びをするように上体をそらして、テーブルの下へぐっと両脚をのばした。
「しかし、何んだなあ、子供のことを考えるとあまり無茶も出来んしなあ」
聴き手の気持には唐突に、云い出した。
「何しろ年子で三人だぜ。ここんなかじゃあ僕が横綱だろう。親父の酔狂でまさか子供を路頭に迷わせも出来ないしね」
すると戸田が、
「おい、おい」
まんざら揶揄《やゆ》ばかりでもないような太い声を出して咎《とが》めた。
「どっちなんだよ一体。大いに煽られたいのか、なだめて貰いたいのか、はっきりしろ、人さわがせな」
みんながどっと笑った。飯島もにやつきながら、それでもその話は決して断念し切れない様子で、赤と白との縞の日覆が半分ひろげられている大きい窓ガラスの方へ視線をやりながら、その眼をしばたたいているのであった。テーブルを立ったとき、戸田はモザイックの床の上で靴をパタパタやりながら、
「壮言はビールの泡とともに、か。とんだ飯島のアルトハイデルベルヒだよ」
都会人らしく疳《かん》をたてて云った。
河岸っぷちの歩道を一人で帰って来ながら、今までその場にあった雰囲気を思いかえすと、慎一は、やっぱりそこに、いかにも今日らしい神経の動きを見るのであった。みんな傍観的態度を保っていながら、その一面では飯島の亢奮につよい疑問の形で捲きこまれているのであった。
そして最後に飯島が沮喪《そそう》したようなことを云い出して、動揺している、その動揺をちゃんと感じとるものがめいめいの心にも用意されていた。
慎一の身辺には、飯島の話のような、どちらかと云えば至極単純な罪のない夢より、もっと複雑な例もあって、この一二年そういう特別の動きかたをした者の現在りゅう[#「りゅう」に傍点]とした姿には、世相の迂曲した大路小路がそのままにうつっているのである。実際そういう変りかたをした例もすくなくない。あの男もこの頃は云々と、も[#「も」に傍点]ということに第三者の心持をこめて語られているのが通例であるが、慎一自身、そういう変転の姿に社会的な感情として羨望を感じないとおり、羨望という言葉で云われれば居据りの組の何万、何十万という人々の大部分も恐らく羨望は感じていないにちがいない。そういう部類の人間と自分たちの生活との間にある距離は偶然のものではなくて、人間としての肌合いの相違として、これまで経て来た生きかたの相違の全部をこめたものとして、意識、無意識のうちに理解されている。
けれども、そういう比較なんかは一切ぬきで、自分というものを自分だけで感じるとき、そこには何か別の感じがある時がある。瞬間の暈《くるめ》くような激しさで、自分というものが橋桁で、下に急な流れをみおろしてでもいるような、止めどなく洗われている感覚に襲われることがある。みんな、と云っても我知らず
前へ
次へ
全8ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング