慎一は自分と似た年齢の三十から三十五六という人々の生活を念頭におくわけだが、みんなこれらの人々は、どんな独りの心持を胸にもちながら、この朝夕をくらしているだろうか。
往復の省線のなかなどで、割合にすまして新聞などをひろげている人の顔に折々つよい興味を感じ、そこは微妙な以心伝心で、その人達の生活の心が、あながち新聞の紙面の縦横の寸法だけに、はまり切っているものでもないことを共感するのであった。
東洋経済というところは、経済的な意味では大してよくないところであった。しかし、慎一がそこへ就職したのには仕事の性質上の興味があった。同じ語学にしても、それが世界の刻々の動向と結びついて役立てられる。このことが慎一の気にかなった。月給で足りないところは、文筆上の内職めいた収入で補って、一人の知識人として謂わば筋のとおった貧乏をして、自分たちの境遇を持って来た。ところが、近頃は、或る瞬間足もとを急流が走っているような感覚に襲われると同時に、はっきりした理由はないが、何となしにこれまでのように安心して、筋のとおった貧乏をやってゆき難い時が迫っているような気のすることがある。しかしながら、その感じにしろ現実には複雑で、異様な瞬間の感じのなかに、やっぱり自分の足の平はしっかり水底を踏んで動いている感じは変らないし、洗われている感じにしろ、それは向う脛《ずね》のあたり、という自覚が伴っている。
そのような生活感情が不安と呼ばれるなら、慎一は自分のその不安ぐるみ、そういうものを発生させている今の時代を、歴史のうつりゆく興味ふかい世相として見る心持も強くある。ひどいにはひどいが、面白くもある。そう思って生きている自分の心理も今日というものをこしらえている日本の一つの要素としてみるのであった。
三
実直な大工の老夫婦が大家であるその家は、小さいなりに階子段《はしごだん》の工合などもよく出来ていて、すまい心地はわるくなかった。特に峯子の気に入っているのは、二階の六畳の座敷についている一間の窓である。人通りのあまりない、杉垣の並んだ往来と門内の小庭に面した南向に、ありふれた一間の出窓があって、別にもう一間西側があいていた。そこは鴨居から敷居までずっとあいていて、白い障子に欅の影が映ったりする時、部屋の趣が深められた。外にゆったりした幅の手摺《てすり》があって、それは程いい露台であった。
「お揃いで、すってんどう、なんていうのは御免だぜ」
引越して来た当座、外まわりからしらべた揚句、夏などは二人ともそこへ出て夜風にふかれながら、この三年の間には随分いろいろな夜を過した。
「あら、あの高い燈。消防でしょう? 見えるんじゃないかしら」
「こっちの燈が消してあるよ」
そしてまた二人は子供をもってからも峯子の職業をつづけてゆくかどうかという相談をつづけたりした。専門学校を出てから結婚しても、峯子は、或る雑誌社へつとめていたのであった。
二階を下りたところの四畳半で、峯子がホワイト・シャツのアイロンかけをやっていた。縁側よりに、同級だった琴子が照子をこっち向きに抱えて、その手元を眺めていた。
「この頃はやりの生めよ、ふやせよもいいけれど、私たちのところなんか、いろいろ影響が微妙で……ねえ」
一年半ばかり中支へ行っていた山崎は還って来てから、夫婦の間に子供のないのを頻りに苦にしはじめた。そして琴子を医者へやったり、注射させたりしているのだそうであった。
「山崎がそういう心持になったのは無理もないと思うのよ。だけれど、私がわるいばっかりでもないのに……困るわねえ」
「どうなの、この頃もやっぱり、もてるの?」
「還って来た当座みたいじゃなくなったらしいわ」
琴子は苦しいような片頬笑いで、
「でもね、山崎はああいう人のいいところがあるでしょう? だから私、どんなことがあったって、自分たちに出来た子供でなけりゃ育てるのいやだって、それだけは、もう、はっきり云ってあるの」
いくら云ってあったにしろ、それで安心というわけのものでないことは、きいている峯子にわかるより、もっとひしひしと琴子の胸に抉りつけられていることであろう。この友達の妻としての苦しみや不安が、様々の形をもって考えられた。そして、こんな一般的な夫婦の間のことにさえも、やはり時代の色はさしこんでいる。それを、峯子は同情した。
琴子は、熱っぽい調子で、
「照子ちゃん、照子ちゃん」
と、名を呼びながら、柔かないい匂いのする幼な児の髪の毛ごしに、照子の丸い頬っぺたへ自分の紅の濃い顔をさしよせた。
「照子ちゃん、あんたどうしてこの小母ちゃんのところへ生れて来てくれなかったのよ」
「それだけは仕方がないわ、ね照子、そうでしょう?」
それと一緒にひとりでに両手がのびて、こっち向きにつくんつく
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