、もっと血の気のうすい思弁の余り水ですむ筈である。
或る小説に或る時代の反応が明かに提出されているということだけが芸術家を成仏せしめるものでもないし、読者に清新な精神の風を吹きおくるものでもない。現代のインテリゲンツィア作家は、自分が現実にどういう反応を示しているかということについて、自身の才気の身振りや、饒舌の自己催眠に眩惑されないだけの神経の勁《つよ》さと真摯な探求心を求められていると思う。
本年三月号の『文芸』で森山啓氏と伊藤整氏とが、森山氏の「収穫以前」について文壇的な礼譲ある往復書簡体の感想を書かれたことがあった。あの文章は、二人の真中に一つのブランクをおいたままその周囲を廻っている感じであった。ブランクというのは「収穫以前」で作者森山氏は主題の更に重厚な展開のために、主人公のような社会層のインテリゲンツィアと家族関係との奥に潜められている心理的因子を主人公の側からとらえ、掘り下げる必要があったことを心付かずにいた。そのことを伊藤氏も全く見落していられた。「幽鬼の町」を読んで、当時の文章を思いおこしたのには、連関があるのである。
現実がもし単に機械的[#「機械的」に傍
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