点]に、潔癖[#「潔癖」に傍点]でわり切れてゆくものならば、文学を通して訴えんとする人間的苦悩は生れないのである。昏迷や作品の上での無解決が問題ではなく昏迷・無解決そのものの社会的・心理的因子と作者の企図する動向が芸術の胚種であることは誰しも知っている。作品の読後感がそこに触れざるを得ない理由もここにある。
 作家の主観というものは、それだけにたよっていると危ない。潮のきつい海の上で当人は一生懸命こっちへ向っていい気持に漕いでいるつもりだのに、数刻経て見たら、豈《あに》計らんやかくの如き地点に押し流されて来ていた、という場合が決して少くない。昨今従来のタイプの作家が主観的であるという特質は、時代的底潮によって実に巧妙に、大局から見れば文学を窒息させる客観的効果の方向に利用されつつある。現代は大小の文学的才能が、自身の才能の自意識であらぬ方にそれぬためには、よそめに分らぬ程野暮な、根気づよい逆流への抵抗が必要なのである。しかも、本質における逆流は時に称讚、拍手、とりまき[#「とりまき」に傍点]の形で作家の身辺にあらわれる時代においておやである。[#地付き]〔一九三七年八月〕



底本:
前へ 次へ
全5ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング