混同した我等の不安、混迷になってしまうのである。
 人は、忽ちその一事実の上に絶対価値批判を組立てようとする。或る概論の実証とし、また反証としようとする。
 平常、自己の結婚生活、恋愛生活に矜持ある希望、信念を持ち得ないでいた者は、わっといってその周囲に馳け集る。おのおの手には帳面を持ち、その行為がよい[#「よい」に傍点]と批評されれば、人生に於けるあらゆる斯の如き種類の行動の下に、よし、と書き込み、悪いと云われればまた、同じ総体を、一言の下に、恐るべき悪行と断定する。人生の、あらゆる行為の価値は、明に個々の行為者に属しているもので、或る善の定義《デフィニション》は、彼も此も人類の一員であるという点で共通ではあっても、その運用価値は、全く各個人によってすっかり違って来ることなどは、まるで忘却されたように見えるのである。
 深い、深い自己の意識、自分の来た処、これから行こうとする処、それ等を、不滅な人類の生存感にまで引あげて我々が人生を全き我が眼[#「我が眼」に傍点]で眺めた時、果して世の中はこれほど塵《ほこり》っぽく騒々しくあらねばならないものだろうか。
 極言すれば、理想を高唱するものも、それに鼓舞されて一躍新生涯を創始しようとする者も、またはそれを傍観するものも、共に、貧弱な沈潜力の所有者であるようにさえ感ぜられる。
 強固に、深刻に人生の意識、人類の内容を考察する者が、どうしてよい気持になって、今更過去のお染久松、お夏清十郎の恋の唄を、我等、人類の恋愛理想の極致だと云えよう。また、或る性的生活に対する反省と、革新との意気とが、次第に密に不可抗の中で発育して来た時、誰がそれを、正当に人らしい礼譲と威力とを以て静に強く主張することを「悪」とするだろう。
 そして、若し我々が、自分を知り人生の大道に生きようとするだけの力があれば、自己の生命にあらゆる責任と義務とを感じて、軽々しく外界の刺戟、無責任な煽動によって破滅に導くことも、図に乗らせることも、ともになし得ないのではあるまいかと思う。
 特に性的生活は、実に微妙なものであると思う。我々は、平静に、人としてその方面に対する自己の傾向、年齢の及ぼす影響、圏境等を省察し、自ら支配し得るだけ心の自由を持ちたいものである。殊に、社会生活の実力に乏しい女性が、多くの場合その結果を自己の力では到底回収し得ない、或る瞬間、或る期
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