春
宮本百合子
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)犇々《ひしひし》と
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)黒|天鵞絨《ビロード》のキャップを
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「閑+鳥」、第4水準2−94−42]
[#…]:返り点
(例)秋来見[#レ]月多[#二]帰思[#一]
−−
硝子戸に不思議に縁がある。この間まで借りていた二階の部屋は東が二間、四枚の素通し硝子であった。朝日が早くさし込む。空が雑木の梢を泛べて広く見渡せ、枝々の間から遙に美しく緑青をふいた護国寺の大屋根が見えた。温室に住んでいるよう、また、空中に浮いているような気もしたが景色はよかった。今度引越した小さい家は、高台ではあるが元の借間程見晴しはない。けれども硝子戸はここにもあって、南方の縁側が八枚、雨戸なしだ。黎明、朝、ひる間、順々に外光がたっぷり八畳に流れ込む。夜、森とした中で机に向ってい、ひょいと頭を擡げると、すぐ前に在る障子の硝子面、外の硝子の面と、いきなり二重に自分の顔や手つきが映り、不気味になる。――ああ、こんなにすき透し! 泥棒にすっかり見られてしまう。どうしても、カアテンがなければ駄目だ!
カアテンをまだ買わないので、朝少し眩しい。私は沢山ぐっすり眠りたい。そこで、工面をし、机の引出しから友達の香典がえしに貰った黒縮緬の袱紗を出した。それを二つにたたみ、鼻の上まで額からかぶる。地がよい縮緬なので、硝子は燦く朝なのに、私の瞼の上にだけは濃い暗い夜が出来る。眠り足らず、幾分過敏になりかけていた神経は快いくつろぎを感じ、更に二三時間休みを得るのだ。
一緒に暮している友達は、いつも私より一時間位早い。彼女は、目が醒めると勢よく二階から降りて来る。その階子が、私の眠っている部屋の頭の方に当るので跫音は大抵ききつける。ききつけながら、私は眠りつづけるのだが、友達は、どちらかといえば私にも早く起きて欲しいに違いない。起きてよい頃と思うと、物音に遠慮しない。
然し、その朝は余り眠く、体がくたくたであった。眠いという溶けるような感覚しか何もない。十一時頃茶の間にやっと出た。まだ包紙も解いてないパン、ふせたままの紅茶茶碗等、人気なく整然と卓子の上に置かれている。――奇妙なことと思い、少し不安を感じた。起きた順に、朝食はすまして勉強することに定めてあるのだから。見ると、日の照る縁側に、まだ起きぬけのままの姿で、友達が立っている。ただのんきに佇んでいるのではない。丁度自分のところまで閉めた硝子戸によりそい、凝っと動かず注意をあつめて庭の方を視ているのだ。私は生きもの同士が感じ合う直覚で、ひとりでに抜き足になった。そして後から廻って近よった。
「どうしたの、なあに?」
「文鳥が逃げちゃった。そこにいるのに」
成程! 籠の中は一羽だ。つい鉢前の、菊の芽生えの青々とした低いかげにもう一羽が出ている。外にいる方の文鳥は、見違えるほど綺麗に感じられた。瑞々しい、青い、四月の菊の葉に照って、薄桃色の、質のよい貝殼のような嘴、黒|天鵞絨《ビロード》のキャップをのせた小さい頭、こまやかな鼠灰色の羽なみが、実に優美だ。鳥は、チチ、チチ、と短く囀りながら、二とび三とび地面を進んで見る。思いがけず翔び出した広い空気をまだ信じられず、子供らしく愛らしく、愕きに満ちているようだ。その感情のあらわれた、不決断な風が一層美しさを添えた。ついその上の軒に吊った、しゃれたサラセン風円屋根つきの籠の中では、のこされた一羽が、外の一羽から目をはなさず、切ない調子でせきこみ、鳴きかけている。チチ、チチュン。外のは内の仲間の鳴声に心牽かれる。さっと水際立った翔び立ちはとても出来ない。チチ。……一寸近よりそうにする。然し、鳥の本性は籠の中より野天の甘美なことを熟知しているに違いない。縁側の手前よりこっちには、決して、決して来ない。チチ、チュ。……思いかえしたように、また元の菊の葉かげ、一輪咲き出した白沈丁花の枝にとまって、首を傾け、黒い瞳で青空を瞰《み》る。次第に強い憧れや歓喜が迫って来るらしい。自然の輝きある朝の緑、幹の色、土の色の裡で、文鳥は本当に活きている小鳥のように見えた。
「つかまえられて?」
私は、外景に於て見る文鳥の美しさにまけ、捕まらなくてもよいと感じる。つかまっては淋しいようにさえ思う。
「――妙なものね、鳥はやっぱり樹や草と一緒に見る方がずっと立派ね、まるで色が引立つじゃあないの、ずっと綺麗ね」
この一対は二月、私の誕生日に、友達である彼女が雨の降る中、買って来てくれたものだ。そう思えばこのまま放してしまうのは、ま
次へ
全3ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング