た違った意味で寂しい。彼女が、さっきからああやって立ったまま根気よく、恐らく決して無い文鳥の万ガ[#「ガ」は小書き]一の気まぐれを待っているのも同じ原因からだろう。
「とんだことを仕たわね、さっき粟をふくときどうしたのか、口を閉めなかった。帰るかしら?」
「さあ……多分だめよ」
「とんだことをしてしまった」
 彼女の心持を理解し、私は云った。
「逃げる気もなく、翔んだら広いところに出てしまったというわけね。――でも、全くいいわ、こうして外の景色と一緒に」
 暫く眺め、友達は呟いた。
「薄情な奴! 一人で逃げ出すなんて! 帰って来い! 帰って来い!」
 私は、微かな哀愁に似たものを感じた。
「――一寸そのままにして置いて御覧なさい。余り私達がそばにいると、却って近よらないかもしれないから」
 私共は、トウストをたべ、紅茶をのんだ。その間にも、友達はちょくちょく縁側に出て見た。
「どう?」
 私はこちらの部屋に坐ったまま訊く。
「うむ?」
 気をとられた生返事だ。私も立ってゆく。二人で見る。文鳥は、さっきから見ると大分外気に馴れた。一はばたきごとに、違った枝、違った樹木の匂りを味い、知ろうとするように、小刻みに、自分を自分の囀りで励しながらとうとう、垣根近い樫の下枝まで行った。チチチ。同じ枝の上であっちを向く。直ぐこっちを見なおし籠を見、中で強く不安げに鳴きつづける仲間に応える。幾度に確かな自信ありげなところが出て来た。いよいよ籠に戻るという万ガ[#「ガ」は小書き]一は期待し難い。
「仕様がないな。――今朝ね、カタログが来たので、早くそれを見たいと思いながら、餌が無さそうなので吹いてやったりしたもんだから」
「はずみね。それにこの籠の戸が少し普通より堅いから、ぱたんと落ちなかったのよ」
「一日こうやってもいられないわね……二階に上ってしまおう!」
 文鳥は、樫の枝から八つ手に翔んだ。細い脚でつかまられて、八つ手の手毬のような叢花がたわたわ揺れる。
 昼過になった。日ざしが斜に樹木の葉うらから金色にさすようになった。文鳥は、垣根の外へまだ翔び去りはしない。けれども、今は自由に、右に左、庭じゅうを飛ぶ。人の近よる気勢にぱっと翔び立つ羽音など、つよく雄々しくなって来た。庭にいるのは、籠に残した仲間に牽かれてではないことが明かになった。残された方も幾分独りに馴れ、気が鎮ったらしい。つきつめて外の鳥を見ていた眼をそらせ、グジュウジュウとうっとりひとり鳴きをしながら、粟をつつく。その有様は、心易いような、果敢《はか》ないような感情を起させた。外の文鳥は、自分の入っていた籠や籠の仲間を忘れきったのか?
 私共は用事があって夕刻から夜にかけて外出した。私は帰るなり訊いた。
「どうして、鳥は」
 留守居の若い娘は、弁解するように答えた。
「いつまでも硝子戸をあけて置きましたが帰って参りませんから閉めてしまいましたけれど……」
「いいよ、いいよ」
 友達が云った。
「かえりたくない鳥さんには帰って貰わないでも」
 今夜は何処で塒を見つけるのかな。心配するのは人間の心持だ。自然は豊富に、枝の茂み葉のかさなりを持っている。私は硝子戸を静にあけ、外を見た。暗い。室内からさす燈火のかげで、近い樹木の葉が一部分光る。軽く風が吹いた。梢が動く。動く梢のどこかの奥に、あの優美な羽色を夜に沈め、広い世界に出た始めての眠りを快く、爽やかに眠っているだろう文鳥。夢に何を見るか。沈丁花の香りが流れて来た。私は鉢前を見下した。鉢前に、しるしばかりの池がある。池の面がさやかに蒼んで、縁側からは見えない中空の何処かに現れた月を思いがけずうつしていた。私は、永い間その月かげを見守った。月を中心に、文鳥や沈丁花が心を往来する。私は元読んだ短い詩の断片を思い出した。

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秋来見[#レ]月多[#二]帰思[#一]
自起開[#レ]籠放[#二]白※[#「閑+鳥」、第4水準2−94−42][#一]
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 今は春だし、文鳥だし、連想はちぐはぐなようだが、私にとって或る切なものがあった。思い出。二年前、或る秋偶然この詩を読んだ。私は更に繰返して幾度もよみ、終に涙を流した。ああ「自ら起て籠を開いて白※[#「閑+鳥」、第4水準2−94−42]を放つ」白鷺[#「鷺」に「ママ」の注記]を放つ。この情。「秋来見月多帰思」境遇の上から実感に犇々《ひしひし》と迫るものがあったのだ。
 私は夜に向って戸を閉めた。
[#地付き]〔一九二五年五月〕



底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
   1953(昭和28
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