郭沫若と云えば、彼が日本の家の内に愛妻と愛子たちとをのこし故国へ向って脱出した朝の物語までを、心に銘して知っている。
だが、中国の社会の歴史は、近代企業としてのジャーナリズムというものを、日本ほど発達させていないのではないだろうか。日本のように、明治以来、よろめきつつ漸々前進しつつある近代の精神を、精神の自立的成長よりテムポ迅い営利的企業がひきさらって、文学的精励、文壇、出版、たつき、と一直線に、文学商売へ引きずりおとしてしまう現象は、中国文学にまだ現れていないのではないだろうか。
バルザックの「幻滅」は十九世紀において、ヨーロッパに出版業が企業として擡頭し始めた時代に、作者たちが、どんなにその営利業の本性をむき出した奸策と闘い、打算に抵抗し、頑強に作家として[#「作家として」に傍点]闘わなければならなかったかということを、暑くるしいほどに描き出している。
芥川龍之介が馬琴を描いた作品の中には、版元が、為永春水と馬琴とを張り合わせようとする苦々しさが、馬琴の感想として語られている。淡く、語られている。
バルザックの小説を読むと、ヨーロッパの近代文学の作家たちはあく[#「あく」に
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