春桃
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)春桃《チュンタオ》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)偶然|遁《に》げのびて来た
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)※[#「火+亢」、第4水準2−79−62]《おんどる》の
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一
情報局、出版会という役所が、どんどん良い本を追っぱらって、悪書を天下に氾濫させた時代があった。日配が、それらのくだらない本を、束にして、配給して各書店の空虚な棚を埋めさせた。今から三年ばかり前は、その絶頂であった。本らしい本をさがす心と眼とは、駄本の列の上に憤りをもって走ったのであった。
そういう時期に、都電が故障した偶然から、神明町のわきの本屋へ入った。何心なく見まわしていたら、「春桃《チュンタオ》」中国文学研究会編という一冊が目にとまった。
その赤い文字の「春桃《チュンタオ》」という題を特別な気持で見たのには、いわれがあった。ざっと一ヵ月も前のことであったろう。護国寺わきの本屋に、この「春桃」が例により十何冊が一束げになって棚に並べられていた。そうもどっさり無感興に並んで、「米鬼を殺せ」という風な本の間にはさまれていては「春桃」という文字が訴える情趣もそがれている。わたしは、惰性めいた微かな反撥の気分のまま、この赤い二つの文字も通りすぎてしまった。
たった一冊「春桃」と、今は、はっきり読める本を見た刹那、護国寺の本屋のことがすぐ思い浮んだ。全く違う好奇心を感じた。ぬき出してみると、その「春桃」は新本ではなく、誰かが金沢市の本屋で買ったものであった。そして、この本屋かどこかへ、売ったものである。そのことにも、一種の懐しみがある。買って帰って来た。
中国文学研究会という集りに対しては、随分古くから、ぼんやりした興味と期待とをよせていた。私たちの精神のなかには、所謂漢文学者を通してでない中国文学を知りたい欲望が非常につよい。現代中国文学の相貌について、深い関心が潜んでいる。その文学が、私共にも読めそうでいて、実は読めない。なまじ、魯迅を知り、魯迅の文学論を読む機会があっただけ、そしてエドガア・スノウの「支那の上の赤い星」の描写が刻みつけられているだけ、この自分でも読めそうで読めない現代中国文学は、不断の魅力となっているのである。
「春桃」は昭和十四年に支那現代文学叢書第一輯として出されたものである。七篇の作品が収められている。落華生「春桃」、冰心女士「超人」「うつしえ」、葉紹鈞「稲草人《かかし》」「古代英雄の石像」、郭沫若「黒猫」「自叙伝」等である。
これら七篇の作品を読み、一貫してつよく心を打たれたのは、これらの中国の作家たちはおそらく小説で飯をたべてはいまい、というリアリスティックな印象であった。
一つ一つの作品については、それぞれ異った印象があるし、おのずから出来、不出来がある。しかし、七篇をとおして流れている云うに云えない生真面目な、本気な、沈潜した作者たちの創作の情熱は、少くとも日本の、浅い文学の根が、ジャーナリズムの奔流に白々と洗いさらされている作品たちとは、まるで出発点からちがったものであることを痛感させた。
ここに集められている作品の作家たちは、おそらく皆、どの人も、中国の文学を愛する人々からは尊敬され、親愛の情をもって期待されている人々であろう。私のように、中国文化について知らない者でさえも、謝冰心女士の名は聞いて久しいし、郭沫若と云えば、彼が日本の家の内に愛妻と愛子たちとをのこし故国へ向って脱出した朝の物語までを、心に銘して知っている。
だが、中国の社会の歴史は、近代企業としてのジャーナリズムというものを、日本ほど発達させていないのではないだろうか。日本のように、明治以来、よろめきつつ漸々前進しつつある近代の精神を、精神の自立的成長よりテムポ迅い営利的企業がひきさらって、文学的精励、文壇、出版、たつき、と一直線に、文学商売へ引きずりおとしてしまう現象は、中国文学にまだ現れていないのではないだろうか。
バルザックの「幻滅」は十九世紀において、ヨーロッパに出版業が企業として擡頭し始めた時代に、作者たちが、どんなにその営利業の本性をむき出した奸策と闘い、打算に抵抗し、頑強に作家として[#「作家として」に傍点]闘わなければならなかったかということを、暑くるしいほどに描き出している。
芥川龍之介が馬琴を描いた作品の中には、版元が、為永春水と馬琴とを張り合わせようとする苦々しさが、馬琴の感想として語られている。淡く、語られている。
バルザックの小説を読むと、ヨーロッパの近代文学の作家たちはあく[#「あく」に
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