傍点]のつよい近代出版業者たちと日夜もみ合いながら、上向する社会全般の経済関係の中で、互に勁《つよ》くなって来ているように思える。文学者の力量は文学者として十分生活上の経済的基盤を与えるし、そのことは作家の思想性をも確立させ、強大な出版企業に対抗するだけの社会性を身にそなえたものとして来ているかと思える。
 日本の作家の事情は、少くともこれまでは、中途半端であった。一定の文学的力量は、比較的たやすく彼及び彼女たちを食わせるようになる。けれども、その食わせかたは、日本的水準で、謂わば、手から口へ、という状態からあまり遠くない。一人の作家が、時流におされて、或る程度日常生活を世俗的に膨脹させてしまうと、そのふくらんだ日暮しを、ころがしてゆくために、執筆は稼ぎとならざるを得ず、稼ぎともなれば、注文に敏感ならざるを得ない。
 戦時中、日本の文学者たちが示したおどろくべき文学精神の喪失は、日本の野蛮な権力による文化圧殺の結果として見られるものであるけれども、兇悪な権力が出版企業と結合して、薄弱な日本文化・文学を底から掘りかえして来た過程は、惨憺たるものがある。
「春桃」一巻は、私たち日本の作家に、それらの事情について思いをめぐらせずにはおかない迫力をもっている。
 中国の文化はまだ甚しく不均衡で、民衆の文盲率は高く、文章によって生計を保ちがたい状態かもしれない。出版ということは、利潤追求の手段となっていない程度であるかもしれない。しかし、文化のその状態は「春桃」に集められた作家たちの心に、食う食わぬをぬきにした創作の誠意を湧き立たせているように見える。
 みずから山河巨大な中国に生れ合わした人民の一人として、中国の民衆生活を衷心から愛し、おかれている苦渋の生活を哀惜し、その未来の運命の発展に対して限りない関心をもっている。そのこころが溢れている。ロシア文学史の十八世紀末から十九世紀の間に見られるロシアとロシア人の運命に対する、文学者たちのナロードニキ風の限りない関心が、「春桃」の作者達の行文の間に漲っている。魯迅によって切りひらかれた近代中国の優秀な文学は、そうした意味で、生粋の人民の文学の要素をもっている。
 アメリカの文学は、ブルジョア民主社会内の個性と理性とが発展し得る道行きの様々な経過と摩擦とを鋭く反映している。その意味で、世界的性格を帯びて来ている。ソヴェト文学は、より先の民主社会の創造力を表現している。半ば眠り半ばは確乎と覚醒している厖大なアジアの一国、中国で、資本主義以前にありながら、しかも、目下の急速な世界情勢の動きにつれて、豊饒な民族資源が才能さえも含めていきなり最も民主的方法で開発される十分の可能をもっているという事実は、私たちにとって、興味以上の感動すべき注目事である。

          二

 春桃は、徳勝門《ドーションメン》の城壁に沿った廂房に暮している三十歳ばかりの、すっきりとした清潔ずきの屑買い女である。崩れのこった二間の廂房の外には、黄瓜《きゅうり》の棚と小さい玉蜀黍《とうもろこし》畑とがあり、窓下には香り高い晩香玉《ワンシャンユイ》が咲いている。劉向高《リウシャンカオ》という、同じ年ぐらいの少しは文字のよめる男が、春桃と同棲している。向高は、春桃が一日の稼ぎを終って廂房に戻って来ると、いつも彼女の背をもみ、足をたたいてやった。そして商売の上では、価のある紙質や書類をよりわける。向高は、春桃をどうしても女房や、と呼びたい。そして、実際にそう呼ぶ。けれども春桃はその度毎に、「女房、女房って、そう呼んじゃいけないって云ってるじゃないか、ええ?」と、うけつけないのであった。春桃は、向高と自分とは天地も拝せず三々九度の盃も交さず、ただ故郷の兵火に追われて偶然|遁《に》げのびて来た道づれの男女が、とも棲みしているばかりだと主張していた。しきたり通りの婚礼をした春桃の良人は李茂《リイマオ》という男だった。やっと婚礼の轎が門に入ったばかりの時、大部隊の兵が部落に乱入して来て、逃げ出した新夫婦は、二日目の夜馬賊に襲撃されて又逃げるとき、遂にちりぢりとなった。その時より四五年経った。彼女の几帳面さと清潔とを見出されて、或る西洋人の阿媽となったが、春桃には、どうしても西洋の体臭に添いかねて、やめてしまった。大きな屑籠を背負い、破れた麦稈《むぎわら》帽子に、美しい顔の半分をかくした春桃は、「屑イ、マッチに換えまァす」と呼んで暑い日寒い日を精出した。そして帰れば夏冬の区別なく必ず体を拭いた。その湯を用意して待っているのは向高である。葱五六本、茶碗一杯の胡麻醤油を買って来て二人で食べる。「彼等のこの数年間の同居生活は、鴛鴦《おしどり》のようだと云っていけなければ、一対の小さな雀のようであったと云えよう。」
 ところが或る日のこ
前へ 次へ
全6ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング