ってゆくまともな迫力。これは、私たちを感動させ考えさせる。芸術の民族性と世界性について沈思させる。正しく調整された民族自主の国々が自由にゆき来し、いろいろな作家が、いろいろの鏡、いろいろの角度で、内と外からそれぞれの国の生活を互に映し、互に表現し合い芸術化してゆく愉しさこそは、この地球に生れ合わしたそれぞれの時代の人間の真の歓喜と富貴であると思う。
アンデルセンの童話を、所謂童話と思ってよむ人はない。葉紹鈞の「稲草人《かかし》」「古代英雄の石像」を童話として紹介すれば、人々は、中国の誠実な一つの心情がその中に流している暗涙の重みにおどろくだろう。
ガルシンの「赤い花」は昔のロシアの苦しい、つきつめた正直なこころの破局的な象徴として、文学史の上に、今日一つのゆるがない場所をしめている。「稲草人」「古代英雄の石像」などが、中国文学史の上で中国の悲傷、誠意、人民の惨苦への愛と民衆創造の希望を象徴した作品として、高く評価され記念さるべき時が近づきつつある。
昼間はもちろんのこと、夜じゅう田圃に立って、天の星や月の美しさ、露の味を知りつくしているのは身動きもしないで、ゆるやかに手の団扇をうごかしている稲草人である。夜も眠らない稲草人の前に、一つ一つくりひろげられる貧しい農家の老婆が害虫と闘い生活と闘う姿や、飲んだくれの夫に売られることを歎いて、投身して死ぬ漁婦の独白は読者の心魂に刻み込まれて消すことの出来ないリアリティーをもって描かれている。
その左腕を内側にまわしていかにも力強く群集をその下に抱きかかえているように、又右腕の拳はぐっと前につき出して、敢て彼を侵さんとする者は何人たりとも来ってこの刑具――拳を受けよ! という風な英雄像に彫り上げられた一塊の石にしかすぎぬものが、余り市民の崇敬を受けてその栄耀に傲慢となり、もとは一つ石の塊であった台座の石ころたちと抗争しつつ、遂に自身の地位に幻滅してこっぱみじんに砕けてゆく物語は、平静に、諷刺満々と語られている。
同じ作者によってかかれた「稲草人」の悲しい絶望と、この作品の展望的な結果の対照とは、私たちに、中国文学が進んでいる明日への方向について示唆するところがある。魯迅の大きい、嘘というもののない人間及び文学者としての投影のなかから、既に、魯迅自身は歩まなかった新しい中国文学の一歩がふみ出されている。丁度ゴーリキイの巨大な懐の中から、夥しい民衆の文学創造力が、かもし出されて、今日のソヴェト文学をゆたかならしめているように。
私たちは、中国文学研究会が、「春桃」を第一輯とした次の第二輯を、出版されることを切望する。蕭軍、蕭紅たちは、きょう、どういう作品を生んでいるだろうか。延安の洞窟のなかで生れる文学はどういうものであろうか。それを知りたいと思っているのである。
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附記 「春桃」一巻の本文、特に主人公たちの名前を、編者は親切に中国の発音に準じてフリガナをつけていてくれる。しかし、作者たちの名に、それがついていない。日本の読者の悲しみは、愛する落華生を、忘れられない葉紹鈞を、どう発音したら、中国及び外国の人々に、その人と知らせることが出来るのか分らない歎きである。これから私たちの読む中国文学は作者の名もはっきりと、世界に通じる発音において学ばなければならないと思う。[#地付き]〔一九四六年二、四月〕
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底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
1979(昭和54)年11月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
1952(昭和27)年5月発行
初出:「近代文学」2、3号
1946(昭和21)年2、4月
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
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