みがちな、しとやかさは同じであった。マダムたちが好意をもっておくりものなどをしてくれる。しかし、彼女は、時々「心乱れて、云い知れぬ淋しさを感ずることが」あった。淑貞はおとなしすぎてニューイングランドの若い青年には面白くない。淑貞にとっても、金髪で碧《あお》い眼の面々、中国にいるアメリカ人とはどことなく違うここのアメリカ人である人々は、やはり退屈に思える。
或る日、C女史の晩餐に李《リー》牧師とその息子の天錫《ティンシイ》が招待されて来た。天錫の静かな慎しみぶかさや、生粋な中国の聰明さにみちた風貌は、淑貞のこころに東洋の香りを充満させた。
天錫はまた一目で見てとった。なつかしい故郷の化身のように生々と自分の前に現れた淑貞も、自分と同じようにここで孤独なのだ、ということを。天錫の純潔な心の苦痛は、彼がニューイングランドの人々にとっていつも一人の「中国の模範青年」であることであった。中国から帰って来た教育家たちが、教会で神学作興資金の演説をしたあとでは、きまって天錫を壇上に呼び上げて、会衆に紹介する。「『之が、我々の教育で出来た中国の青年です。ごらん下さい』と云わんばかりです。これは猿まわしみたいなものではないですか」「私は敢て云います、もしわたしにたとえ少しでもとるべきいいところがあっても、決して彼等の訓練で出来たものではありません」
たいまつ[#「たいまつ」に傍点]のように目を輝かせ、亢奮している天錫をみて、淑貞の眼には、いつか清らかな涙が流れた。その涙をこぼすまいとして、淑貞は元の姿勢で、無理に微笑を浮べて天錫を見上げている。淑貞の感動は強烈である。けれども、彼女の分別は、やはりしずかで、もち前の落着きを失うことがない。「しかし、私からみますと、ひとの考えも皆わるくはないと思いますの。」「もしも冷静に考えて、心静かにこの刺戟を故国へもち帰り、我々を鼓舞して仕事をし、国際上の接触においてもよく光栄ある祖国のために働かせ、心の健全な人を作るべきではないでしょうか」
淑貞がニューイングランドへ来てから半年経った。外面から見た日常生活に大した変化はないのに、淑貞は何と変ったろう。C女史は「手を額に当てて、懺悔に似た心もちで呆然と窓の外を眺めた」淑貞の窈窕《ようちょう》たる体には活溌な霊魂が投げ入れられて、豊満になった肉体とともに、冗談を云う娘となって来た。
二十八年間を中国に暮したC女史にとって、故郷の天気は却って体に合わなくなっている。C女史はものうくベッドにもたれていた。軽快な足どりでそこへ入って来た淑貞はいつものように、C女史をやさしく劬《いた》わり、笑いながら「母さん御覧なさい、これ、あたし達が前にピクニックに行った時の写真よ、天錫さんが私の知らないうちにとったのがあるのよ」
C女史は、ものうくその写真をとりあげた。八枚の最後の一枚を手にとりあげたとき、C女史は突然目を見はった。
若葉でいっぱいに飾られたゴムの大樹、一面の芝原、うつむいて御馳走のふたをとろうとしていた淑貞が、にわかに頭を擡げた瞬間にシャッターがきられている。淑貞の「顔一杯の嬌笑、それは驚きと喜びと情熱の哄笑です。生々とした眸、むき出された雪白の歯、こうした笑いをC女史は十年この方絶えて見たことがありませんでした」戦慄が、C女史の体を貫いて走った。名状しがたい感激がわき上った。「驚きではない、怒りでもない、悲しみでもない。彼女はただしっかりとこの一枚のうつしえを抱きしめました」
再びその部屋に入って来た淑貞の咲きみちた花のような姿は、C女史に「一団の春意屋中に在りて流転す」とでもいう感銘を与える。ふと目をあげて向いの化粧鏡に映った自分の姿、その髪は乱れ、毛糸のシャツを着て蒼ざめた顔、眼はいくらか血走って、眼尻に多い皺。淑貞は又その写真を手にとって無邪気に云った。「母さん、この人たちこんなに活溌でかわいいのね。わたし達そう云ったのよ。みんなで一緒に大学へ入学しましょうって、きっと……」C女史は答えない。C女史はそっと下唇をかみ、涙ぐんだ眼を、窓の外に向けた。そして心配そうに「母さん何を考えていらっしゃるの?」ときく淑貞の手を軽くとって云った。「淑貞や、私は中国へ帰ろうかと思っているんだよ」
冰心女士は、読み終った人々の心の中に同情と哀愁とを湛えさせたまま、そっと自分はものかげへ退いてしまう。ここには、何と東と西とがまざまざと在り、しかも同時に、その東と西とをひとくるみにする人間らしさが流れているだろう。字が読めない中国の女も、必ずそれは巧みであるとされている中華刺繍の一片は、絹の糸のよりかたから、糸目の並べかた、色の配合、すっかりそれはフランスの刺繍と違う。アメリカのドローン・ワアクとも違っている。違うことにある美しさ、美しさ故に世界の心にしみ透
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