よんだので「先に小人、後に君子」の道理をのみこめたし、生存の利害はきっちり春桃に結ばれていたし、嫉妬してはならないと云ったから、彼はその種子さえも踏みにじってしまった。李茂にしても、春桃のところから出てほかのどこへ行きたかろう。李茂は、家の内にいて、切手や紙のよりわけが上手になって行った。
けれども二人の男と一人の女とが、一つ※[#「火+亢」、第4水準2−79−62]の上に寝るのは、どうもあまり便利ではなかった。二人の男の間に、微妙な不安があった。二人は、春桃をゆずり合い、幾度も字のかける向高は「赤い書付」をかいた。春桃は、何度もそれをやぶいた。そういうおだやかだが、こころにかかるいきさつのうちに或る夕方、向高の姿が見えなくなった。その姿をさがしても見当らず、がっかりして帰って来た春桃が見つけたのは、窓の※[#「木+靈」、第3水準1−86−29]子《れんじ》に自分の体をつり下げている李茂であった。彼は息をふきかえした。二日経って、春桃が商売からかえると、部屋からとび出して来る向高の姿を見た。
「あんた、帰ったのかい……」春桃の頬を涙が流れた。
「おれは、もう向哥《シャンさん》と相談して、そうきめたよ、あの人が戸主で、わたしは同居人だ」
瓜棚の下で、又商売の話が賑やかに始められた。彼等の廂房に、戸口証が貼られた。戸主劉向高、妻劉代。李茂はもうぐっすり眠っていた。天の川はすでに低くなっていたからである。晩香玉《ワンシャンユイ》の香の高いひっそりとした暗やみの中で、かすかに「女房や」と云いかけるのと「聞きたくもない。わたしはあんたの女房じゃないよ」という答えが聞かれた。
こういう風趣の作品を書いた作者落華生が、コロンビア大学、オクスフォード大学に遊学して、専門は印度哲学の教授であるというのは面白い。余技のように作品を書いて来ていて、初めの頃は異国情調や宗教的色彩の濃いロマンティシズムに立つ作品であったという人が、一九三四年七月の『文学』にこの「春桃」を発表した。
新しい中国の知識人として、彼が享けた西欧の教養が、初めは漫然とヨーロッパ文明に対する東洋というものを意識させ、彼の作品が余技であれば尚更のこと異国情調という程度に止っていたのだろう。しかし中国人民の目ざめとともに、人民生活は、つよくひたひたと彼の紳士であり大先生である皮膚にしみ入って来たと思える。彼はそこ
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